米塩博箸
「米塩博弁」という言葉がある。
一般には、多方面にわたって広く議論することとされる。
しかし、私は少し違和感がある。
「博」である者が、本当に弁を述べる必要はあるのだろうか。
博とは、多くを知る者である。
ならば、その役割は多くを語ることではなく、多くを受け止めることではないか。
昔の共同体には、長老や師と呼ばれる存在がいた。
彼らは必ずしも一番雄弁ではなかった。
若者の話を聞き、職人の経験を聞き、商人の現実を聞き、それぞれの知識や歴史を持ち寄りながら議論を調停していた。
つまり、
弁を述べるのは周囲であり、博は受け手だった。
現代はどうだろう。
本来、博であるべき者が、
「それは間違いだ。」
「専門外だから他に聞いてくれ。」
「私の学説ではこうだ。」
と、自ら議論の当事者となり、自身の正当性や権威を示すことに力を使っているように見える。
その結果、語る者は増えた。
しかし、受け止める者はいなくなった。
議論は勝敗となり、調停は消え、構造を見出す者もまた減ってしまった。
だから私は「米塩博弁」ではなく、
米塩博箸
という言葉を考えた。
箸は、自ら味を持たない。
ただ、多様な食材を受け取り、口へ運ぶ。
博もまたそうあるべきではないか。
多様な意見を受け止め、咀嚼し、整理し、必要なものを人へ渡す。
それが博の役割である。
博とは、多くを語る者ではない。
多くを受け止められる者である。
