不即不離から速即速離へ
― 情報化で壊れた距離感と感情速度の話
最近、「空気が異常だな」と思うことが増えた。
家族でも、会社でも、社会でも。
少し前までなら、時間をかけて調整されていた関係が、妙に極端になっている気がする。
近すぎるか、離れすぎるか。
「ちょうどいい距離」が消えている。
そんな感覚を考えていた時、ふと思い出した言葉がある。
不即不離(ふそくふり)
近づきすぎず、離れすぎず。
仏教由来の言葉であり、人との程よい距離感を指す言葉だ。
相手に依存しない。
かといって切り捨てもしない。
関わるけれど飲み込まれない。
昔の人間関係は、案外この距離感で成り立っていたのかもしれない。
しかし、今は違う。
現代社会を表すなら、こう言える気がする。
速即速離(そくそくそくり)
すぐ繋がり、すぐ離れる。
SNSを見ればわかりやすい。
少し会話しただけで、急激に心理的距離が近づく。
「わかってくれる人」
「同じ価値観」
「運命的な出会い」
しかし少しズレると、
即ブロック。
即対立。
即断絶。
家族問題ですらそうだ。
昔は問題が見えにくかった。
だからこそ、異常な家庭環境でも「これが普通」と思い込んでしまう問題もあった。
情報化によって、
「それ普通じゃないかもしれない」
と気づけるようになったのは良い面だと思う。
しかし同時に、
比較対象が増えすぎた。
SNSを開けば、
理想の親子。
理想の夫婦。
理想の家庭。
比較が即時に始まる。
少し嫌なことがある。
検索する。
すると、
「毒親です」
「モラハラです」
「距離を置きましょう」
という答えが即座に流れてくる。
もちろん、本当に距離を取るべきケースもある。
ただ、その前段階にあったはずの
“間”
が消えている気がする。
本来、人間関係には距離が必要だった。
そして、もしかすると――
感情にも距離が必要だったのかもしれない。
怒りには冷却時間。
悲しみには余韻。
寂しさには熟成。
昔は、時間や物理距離が勝手にそれを作っていた。
手紙は届くまで時間がかかった。
会えない時間があった。
季節にも「間」があった。
春があり、夏があり、秋があり、冬があった。
特に秋は、待つ季節だった。
だからこそ、
一日千秋
という言葉が生まれた。
一日会えないだけで、千年のように長く感じる。
待つ時間。
想う時間。
感情が熟成する時間。
しかし今、季節すら変わっている。
春と秋は短くなり、
時には一日で四季を感じるほど気候変化が激しい。
朝寒く、昼暑く、夜冷える。
気候が急変すると、人は体調を崩しやすい。
ならば――
感情も同じなのかもしれない。
感情が急変し続ければ、壊れやすくなる。
今の社会は、
一日千秋ではなく、一日四季
なのかもしれない。
朝に春の希望が来て、
昼に夏の焦燥が来て、
夜に秋の寂しさが来て、
眠る頃には冬の虚無が来る。
しかも、それを処理する前に次の通知が来る。
次の話題が来る。
次の感情が来る。
人は昔から感情的な生き物だった。
けれど、
感情を処理する距離を失った生き物
ではなかったのかもしれない。
不即不離。
今、一番必要なのに、一番難しくなった感覚。
もしかすると、情報化が壊したのは「距離」ではなく、
“距離を使って感情を調整する能力”
なのかもしれない。
