ライブが流行るのは音楽の本質ではなく、収益化の最適解だった話
最近よく思う。
ライブ文化がここまで「音楽の本質」のように語られるのは、本当に音楽そのものの本質なのだろうか。
もちろん、ライブにはライブの魅力がある。
その場の空気。
身体に響く低音。
観客同士の一体感。
同じ瞬間を共有する熱量。
それは確かに強い体験だ。
けれど、それをそのまま音楽の本質と呼ぶことには少し違和感がある。
音楽には、お囃子もある。
祝詞もある。
児童音楽もある。
一人で深夜にイヤホンで聴く音楽もある。
つまり音楽は、本来もっと多機能で、多様な役割を持っている。
ライブはその中の一形態にすぎない。
ではなぜ、ここまでライブ文化が強く語られるのか。
私はそこに、音楽の本質以上に「収益構造」があると思っている。
現代の録音音楽は、配信やストリーミングによって大量に流通する一方で、アーティスト側の収益は薄くなりやすい。
一方ライブは、チケットだけでなく、物販、ファンコミュニティ、限定体験など、収益化しやすい。
つまりライブは文化であると同時に、経済的に成立しやすい形でもある。
だからミュージシャンがライブを重視すること自体は自然だ。
問題は、その経済合理性がいつの間にか「音楽の本質」という言葉にすり替わってしまうことだ。
ライブが流行るのは、音楽の本質だからではなく、収益化しやすいからでもある。
この構造を見ないまま「これこそ音楽だ」と語ると、あまりにも視野が狭くなる。
音楽は本来、もっと広い。
共有体験だけではない。
一人の心を埋める音楽もまた、音楽の本質の一部なのだと思う。
