筆耕硯田は存在するのか

「筆耕硯田」という言葉がある。
筆で硯田を耕し、文章によって生計を立てる者を指す言葉だ。

しかし、この言葉を眺めていて、ふと疑問に思った。
本当に文章や思想で生活している人は存在するのだろうか。

小説家も学者も評論家も新聞記者も文章を書く。
だが彼らに流れる金は、本当に文章そのものへの対価なのだろうか。

出版社があり、組織があり、権威があり、読者がいる。
文章は確かに存在する。
しかし収穫しているのは文章ではなく、その周囲に形成された信用や関係性である場合も少なくない。
文章は種かもしれない。
だが畑そのものではない。

現代になると、それはさらに露骨になる。
文章で稼ぐのではない。
注目で稼ぐ。
思想で稼ぐのではない。
反応で稼ぐ。
理解で稼ぐのではない。
拡散で稼ぐ。
対立を煽る者。
不安を煽る者。
怒りを煽る者。
承認欲求を刺激する者。
そうした営みが収益化される光景は珍しくなくなった。

そこで思いついた言葉がある。

感耕炎田。
感情を耕し、炎を育て、収穫を得る。
現代の一部の情報発信者を表すには、筆耕硯田よりこちらの方が近いのかもしれない。

だが、ここでさらに考える。
そもそも文章や思想は換金できるものなのだろうか。

思想は空気のようなものだ。
文章は種のようなものだ。
種そのものは食べられない。
風そのものも売れない。
だから思想で金を得るのではない。
文章で金を得るのでもない。

思想や文章によって誰かが動き、その結果として金が流れてくる。
順序は逆なのである。
思想が先で、金が後。
作品が先で、利益が後。

もし金を目的として思想を作るなら、それは思想ではなく商品になる。

もし注目を目的として文章を書くなら、それは文章ではなく広告になる。

もちろん商品や広告が悪いわけではない。
ただ、それは筆耕硯田とは別の営みだ。

だから私は思う。
本来の筆耕硯田とは、
「文章で稼ぐ人」
ではなく、
「文章を書き続けた結果として収穫が訪れる人」
を指していたのではないか。

文章や思想は本来、稼ぐためのものではない。
伝えるためのものだ。
残すためのものだ。
誰かを動かすためのものだ。

そして、その結果としてお金が流れてくることはある。

だが、お金そのものを耕すことはできない。
耕せるのは、いつの時代も思想と作品だけなのだから。

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