プラスサムという幻想
――人口減少フェーズにおける総時間はマイナスサムである
最近、出版や創作の文脈で「ゼロサムではない」「みんなで市場を広げよう」という言葉をよく見かける。
誰かの成功は誰かの失敗ではなく、むしろ読者や市場全体を広げる契機になる。
その意味では、たしかに希望のある言葉だ。
けれど、私はこの言葉にずっと違和感を持っていた。
なぜなら、その議論の多くが、時間という最も根源的な資源を前提にしていないように見えるからだ。
プラスサムは本当に成立しているのか
まず整理しておきたい。
ゼロサムとは、誰かの利益がそのまま誰かの損失になる構造を指す。
一方、プラスサムとは全体の価値が増える構造だ。
ここで多くの人は、ゼロサムを「奪い合い」、プラスサムを「みんなで幸せ」と道徳的に捉えがちだが、本来これは感情の言葉ではなく、資源配分の構造の話である。
問題は、その資源を何と定義するかだ。
売上だけを見るなら、市場全体が伸びてプラスサムに見えることもあるだろう。
しかし、人間の生活を支えている最小単位はお金だけではない。
それは時間である。
総時間は人口に比例する
社会全体で使える総時間は、極めて単純に表せる。
[総時間 = 人口 \times 24時間]
一人の時間は増えない。
一日は24時間のままだ。
ならば、人口が減少している社会では、総時間は必ず減る。
これは感情論ではなく、単純な算数だ。
100人の社会と90人の社会では、1日に使える総時間は当然違う。
人が減れば、
労働に使える時間
子育てに使える時間
学習に使える時間
読書に使える時間
創作に使える時間
すべてが減る。
この時点で、社会全体は少なくとも時間資源においてマイナスサムである。
読書市場も例外ではない
創作や出版の文脈で「市場を広げる」という言葉を聞くたびに思う。
その読書時間は、どこから来るのだろうか。
人の一日は増えない。
本を読む時間が増えるなら、
動画を見る時間
SNSを見る時間
家族と過ごす時間
自分が創作する時間
のどこかが減る。
つまり、少なくとも個人の時間単位ではゼロサム、あるいは別領域を削る意味でマイナスサムでもある。
にもかかわらず、「みんなで市場を大きくしよう」という言葉だけが先行する時、そこには時間資源の有限性が抜け落ちている。
もっと根本的な問題
そして、私が最も違和感を覚えるのはここだ。
人を育てる時間すら守れていない社会で、何をもってプラスと言えるのか。
少子化が進み、教育や子育ての負担が家庭や個人に偏り、未来を担う人間を育てる余白が削られている。
この状態で「成長」や「市場拡大」を語るのは、あまりにも言葉が先行している。
プラスサムとは、再生産が成立して初めて語れる言葉だ。
人が減り、人を育てる時間も減り、それでもなお全体がプラスになるというのは、かなり楽観的な幻想ではないだろうか。
プラスサムという希望の物語
もちろん、私は希望を否定したいわけではない。
ただ、希望を語るなら、まず現実の構造を見なければならない。
人口減少フェーズにおいて、総時間は確実に減る。
この前提を無視して「みんなで享受できる」と言うなら、それは構造ではなく願望だ。
願望を否定するつもりはない。
だが、願望を構造の言葉で語り始めた時、現実とのズレが生まれる。
私には、そのズレこそが今の社会や創作市場の違和感の正体に見える。
プラスサムという言葉は美しい。
けれど、その美しさに酔う前に、まず私たちは減っていく時間と向き合う必要があるのではないだろうか。
