ざまあ系小説、SNSの社会問題炎上に見る因果系譜

ざまあ系小説と、SNSで繰り返される社会問題の炎上案件は、表現や媒体が違うだけで、ほぼ同じ因果構造を持っている。

どちらも「現実を考えるための物語」というより、感情を処理するための娯楽装置として機能している。

これは善悪の話ではない。
優劣の話でもない。
単に、長い娯楽の系譜の中にある構造の話だ。


因果と勧善懲悪は別物

まず分けておきたいのは、「因果」と「勧善懲悪」は同じではない、ということだ。

因果とは、
行為と結果の関係そのものを指す。
そこに善悪の裁定は本来含まれていない。

たとえばイソップ寓話は、因果を描くが、善悪を断定しない。
「こうしたから、こうなった」という構造だけを置く。

一方、勧善懲悪は、因果にあらかじめ価値判断を貼り付け、善は報われ、悪は罰せられるという安心できる結末を用意する。

これは説明ではなく、感情を着地させるための形式だ。

娯楽として完成した勧善懲悪の系譜

この形式は、江戸時代に大衆娯楽として完成した。

  • 歌舞伎

  • 黄表紙

  • 講談

  • 時代劇

義経は善であり、悪は成敗される。
観客は迷わない。
考える必要もない。

その系譜は、現代では形を変えて続いている。

  • ざまあ系小説

  • 社会問題を題材にした炎上コンテンツ

  • SNSの対立煽り

どれも構造は同じだ。
善悪は事前に決まり、読者や視聴者は常に安全な側に立ち、最後は断罪や勝利でスッキリ終わる。

社会問題を「考えている」わけではない

ここで混同しない方がいい。

これらは社会問題を考えている行為そのものではない。

社会問題を「素材」として使った娯楽であり、感情を処理するための装置だ。

娯楽として楽しんでいる限り、それは健全だ。
何も悪くない。

問題が生じるのは、
それを

  • 社会問題に明るくなった

  • 未来について考えた

  • 現実を理解した

と誤認した瞬間だ。

その時点で、思考は娯楽の枠内に閉じ込められ、用意された因果以外が見えなくなる。

ざまあ系が一番正直かもしれない

皮肉なことに、この中で一番健全に見えるのはざまあ系小説かもしれない。

なぜなら、最初から「これは物語です」「これは娯楽です」と隠していないからだ。

チートも覚醒も断罪も、ご都合主義だと誰もが分かっている。

だから現実と混同しにくい。

一方で、社会問題を扱っている顔をしながら、同じ構造を再生産するコンテンツの方が、現実認識を歪めやすい。

娯楽を娯楽として見る、というだけの話

娯楽は悪ではない。
人間が昔から楽しんできたものだ。

ただ、娯楽を娯楽として認識しないまま、
それを現実だと思い込んだ時、それは思考ではなく妄想になる。

言いたいのは、それだけだ。

社会問題を娯楽として楽しむことと、社会問題について考えることは、同じではない。

その区別をつけておかないと、考えているつもりで、ずっと同じ型の中を回り続けることになる。

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