なぜパフォーマーの低待遇は問題化され、作家は自己責任化されるのか
――同じ表現労働なのに、なぜ扱いが違うのか
同じ「表現者」であるはずなのに、社会が向ける視線は驚くほど違う。
テーマパークのパフォーマー、舞台俳優、ダンサー。
彼らの低待遇や過酷な労働環境は、比較的問題として語られやすい。
一方で、作家や小説家、ライターはどうだろうか。
売れない。
生活できない。
出版社や編集の意向に合わせ続ける。
こうした構造的問題があっても、それはなぜか「労働問題」ではなく、個人の責任として語られやすい。
ここに、大きな構造の歪みがある。
1. 同じ表現労働なのに、見え方が違う
まず前提として、両者は本質的に同じ表現労働である。
パフォーマーは身体で表現する
作家は言葉で表現する
違いは媒体だけだ。
しかし社会はこの二つをまったく異なるフレームで見ている。
パフォーマーは「職場」が見えやすい。
舞台
テーマパーク
劇団
ショー運営会社
つまり所属先が可視化される。
そのため、
低賃金
長時間拘束
身体負荷
雇用不安
が労働問題として認識されやすい。
2. 作家はなぜ問題化されにくいのか
作家は逆に「職場」が見えにくい。
執筆は自宅で行われることも多く、表面上は自由に見える。
だが実際には、
編集の修正要求
出版社の販売方針
市場に合わせた方向修正
売上プレッシャー
こうした外部要因に強く影響される。
にもかかわらず、それはしばしばこう言い換えられる。
好きでやっているんでしょ
売れないのは自己責任
プロなら売れるものを書け
ここで問題が起きる。
本来は構造の問題であるものが、才能や努力の問題へと変換されてしまう。
3. 夢職の自己責任化
この二つには共通点がある。
どちらも「夢職」であることだ。
好きなことを仕事にしている人間に対して、社会はしばしばこう考える。
好きなら多少待遇が悪くても仕方ない
このロジックは非常に危険だ。
好きであることと、適切な労働環境は別の問題である。
しかし作家に対しては、この自己責任化がさらに強い。
なぜなら作家は、個人の才能神話と結びつきやすいからだ。
売れないのは構造ではなく、本人の問題だとされやすい。
4. 出版社という「舞台」
ここで、パフォーマーとの比較が非常に有効になる。
テーマパークの舞台を想像してほしい。
巨大な舞台が用意され、そこでしか多くの人に見てもらえない。
演目、時間、演出は運営側が決める。
パフォーマーはその条件の中で踊る。
出版社もこれに近い。
流通
販促
編集
書店導線
巨大な舞台装置を持っている。
そして、そこに乗ることが「成功」とされやすい。
だが本来、表現は舞台の外でも成立する。
Web、note、個人サイト、コミュニティ。
場所は複数ある。
にもかかわらず、出版社だけが正統ルートであるかのように扱われる。
5. 作家だけが責任を背負わされる構造
さらに厄介なのはここだ。
流通を握っているのは出版社である。
どこに置くか、どう宣伝するか、何部刷るか。
これらは出版社側が決める。
それなのに結果責任だけは、しばしば作家の倫理に戻される。
売れなくてもいいと言うな
関係者の努力を無駄にするな
この言説は、システム責任を個人倫理へとすり替えている。
ここに、作家が自己責任化されやすい構造がある。
6. 結論
パフォーマーの低待遇は労働問題として見られる。
作家の低待遇は自己責任として見られる。
だが本質的には、どちらも同じ表現労働だ。
違うのは、社会がそれをどうフレーミングしているかだけである。
好きでやっていることと、構造的な問題は分けて考えるべきだ。
作家だけが、才能や覚悟の言葉で全てを背負わされるべきではない。
これは個人の問題ではなく、構造の問題である。
