MVありきで曲を作る風潮は、曲そのものに個性がないとラベリングしている
最近、音楽生成AI界隈を眺めていて、少し気になっていることがある。
それは
「MVありきで差別化する」
という空気感だ。
もちろん、MVや映像表現を否定したいわけではない。
むしろ現代のプラットフォーム構造を考えれば、映像が入口になるのは極めて自然だ。
YouTube Shorts、TikTok、Instagram Reels。
いま人が最初に触れるのは、音ではなく映像であることが多い。
だからMVが露出の入口になること自体は理解できる。
ただ、ここでひとつ大きな違和感がある。
MVを差別化の主軸として語った瞬間、それは暗に
「曲そのものでは個性が出ない」
と前提化してしまっていないか、ということだ。
ここに、私は少し危うさを感じている。
それは評価ではなくラベリング
「AI楽曲は音で差がつきにくいから、MVで個性を出すしかない」
この言葉は一見合理的に見える。
けれど、この言い方をそのまま受け入れると、最初から
AI音楽 = 音では差がつかないもの
というラベルを貼ってしまうことになる。
これは評価というより、先入観に近い。
本当にそうだろうか。
同じ生成AIを使っていても、
ジャンル選択
テンポ感
音の温度
歌詞の思想
曲構成
ボーカルの質感
作品全体の文脈
ここには確実に差が存在している。
にもかかわらず、最初から「映像で差別化」と定義してしまうと、その差異を見ようとしなくなる。
つまり問題は、個性がないことではなく、
個性を音楽の中に見出す視点そのものを放棄していること
なのではないかと思う。
MVは入口であって、本体ではない
現代においてMVが強いのは事実だ。
人はまず映像で止まり、そこで興味を持って初めて音に入る。
これはプラットフォーム構造の話であって、作品の本質とは別問題だ。
入口として映像が強いことと、作品の核が映像であることは違う。
ここを混同すると、音楽はいつの間にか映像のBGMへと後退してしまう。
音楽フェスであるはずの場が、実質的に映像演出のコンテストになっていくとしたら、それは少し本末転倒にも見える。
多様性がないのではなく、見ていないだけ
AI音楽に多様性がない、という言説もよく見かける。
だが私は、それは少し違うと思っている。
多様性がないのではなく、多様性を見ようとする視点がまだ育っていないだけではないか。
技術の民主化によって大量供給が起きた今、確かに平均値に見える作品は増えた。
しかし、その中にも思想、構造、文脈の差は存在する。
そこを見ずに、MVだけを差別化軸に据えるのは、作品の多様性そのものにラベルを貼ってしまう行為だ。
最後に
MVは入口として非常に重要だ。
それ自体を否定するつもりはない。
ただ、MV前提でしか個性を語れない空気が広がると、音楽そのものの個性は見えなくなる。
それはAI音楽に多様性がないのではなく、私たちがまだその多様性を見る言葉を持っていないだけかもしれない。
作品の入口が映像であっても、作品の核まで映像にしてしまっていいのか。
その問いは、これからのAI音楽文化にとって、かなり重要だと思っている。
