「需要を見ろ」という言葉への違和感
ビジネスの世界ではよく言われる。
「需要を見ろ」
「市場を見ろ」
「顧客のニーズを探せ」
一見すると正しい。
人が欲しいものを作る。
困っていることを解決する。
当たり前のように聞こえる。
しかし私は、この言葉にずっと違和感を抱いている。
なぜなら、多くの場合そこで語られる「需要」は、本当に人が欲しているものではなく、「企業が収益化できるもの」を指しているように見えるからだ。
例えば音楽配信サービスを考えてみる。
Spotifyは成功した。
多くの人はこう言う。
「音楽需要を満たした」
だが本当にそうだろうか。
人々は昔から音楽を聴いていた。
CDの時代もそうだし、Napsterの時代もそうだ。
Spotifyが解決したのは音楽を聴きたいという欲求ではない。
権利処理であり、決済であり、合法的な流通経路だった。
つまり解決したのは主に制度の問題である。
それを「音楽需要を満たした」と表現してしまうと、本質が見えなくなる。
同じことは多くのビジネスに当てはまる。
AI議事録。
広告最適化。
営業支援。
どれも市場需要があると言われる。
なぜか。
企業がお金を払うからだ。
しかしここで言う需要とは何だろう。
人間が本当に求めているものだろうか。
それとも企業が利益を得るための手段だろうか。
私は後者であることが多いように思う。
市場が評価しているのは欲求ではない。
換金率である。
どれだけお金に変換しやすいか。
どれだけ収益化しやすいか。
その結果、
「市場需要がある」
という言葉は、
「企業が儲けられる」
という意味に近づいていく。
ここで奇妙な逆転が起きる。
人々が本当に欲しているものほど、市場では需要がないと判断される。
例えば、
埋もれた作品を発見したい。
価値観の近い人と出会いたい。
自分を理解したい。
世界を別の視点から見たい。
こうした欲求は確かに存在する。
しかし収益化が難しい。
だから市場では需要として扱われにくい。
結果として、
需要を追えば追うほど、
人間の欲求から離れていく。
企業は需要を追っているつもりになる。
しかし実際には換金手段を追っている。
その積み重ねの先にあるのは、
「人が欲しいもの」
ではなく、
「企業が利益を得やすいもの」
である。
だから私は「需要を見ろ」という言葉に違和感を抱く。
本当に問うべきなのは、
需要があるかどうかではない。
誰の需要なのか。
何の欲求なのか。
そして、それは本当に人間が望んでいるものなのか。
その問いを抜きにして語られる需要論は、
時として人間そのものを見失う。
需要を追い求めれば追い求めるほど、需要から遠ざかる。
そんな逆説が、今の社会にはあるように思う。
