残滓 ―忘れぬ想い―
プロローグ:実験室の静寂
白い蛍光灯の音が、世界のすべてだった。
モニターには“ERROR_453:未検知転送断絶”とだけ表示されている。
私は操作パネルの前に立ち尽くしていた。
実験は終わったはずだった。
数秒前まで、私はこの装置の中にいた──粒子レベルに分解され、転送され、再構築される──世界初の「完全転送」実験。
成功だった。
誰もがそう言った。
ただ、一つだけ。
私は、あのとき確かに「抜け落ちた」感覚を覚えている。
それは記憶か、感情か、魂か。
うまく言葉にできない。
でも、子どもを抱いたときの“あの体温の違和感”だけは、たしかだった。
「──ママ、なんで泣いてるの?」
息子の声が、やけに遠くに聞こえた。
第1章:転送前夜
実験室は、いつもより静かだった。
深夜2時。構内に人の気配はなく、わたしとオペレーター数名だけが最終プロトコルを確認していた。
「転送ユニットの安定確認、完了」
「脳波モジュール、同期率98.7%──閾値内です」
スタッフの報告が次々と上がる。
そのたびに、わたしの呼吸はほんの少しずつ浅くなる。
これが最初で最後の“完全転送”。
身体を分子レベルに分解し、遠隔装置で再構築する。
神話にしかなかった“再誕”が、現実になる瞬間。
なのに、心は落ち着かなかった。
カプセルの中は、無音だった。
内部に注入された誘導ガスが、ゆっくりと意識を薄めていく。
家族の顔が浮かんだ。
息子の手。夫の背中。
さっき交わした「いってきます」が、やけに遠かった。
「意識の連続性は維持されるはずです」
それが自分の設計した理論だった。
でも──
もし、再構築された“わたし”が、“わたし”じゃなかったら?
その問いが、急に脳裏に突き刺さる。
そしてその直後──
警報は鳴らなかった。
静かに、気づかれないまま、何かが“抜けた”。
電磁シールドが一瞬だけ揺らいだことを、ログは記録していない。
次の瞬間、目を覚ましたとき、わたしは外に立っていた。
転送は成功していた。
全員がそう言った。
でも、わたしの中には確かに、**“抜け殻のような感覚”**が残っていた。
まぶたを閉じると、
自分が“収束しきれていないノイズの塊”のように感じた。
第2章:家族の記憶と空白
「……ママ?」
寝起きの声にしては、やけにやさしかった。
扉の向こうから、彼がこっちを見ていた。
髪はぼさぼさで、寝癖が後頭部に渦を巻いていた。
いつも通りの朝。
息子はその小さな足で駆け寄ってきて、私の体に飛び込んだ。
重さは合っていた。
でも、感覚が届かない。
「ママ、おかえり」
その言葉が、どうしてか“過去形”に聞こえた。
私は笑ったつもりだったけど、唇の端が引きつる気がした。
「……ただいま」
ダイニングに入ると、夫がコーヒーを淹れていた。
ラフなシャツに疲れた目。転送実験前と変わらない彼の朝。
「よく眠れたか?」
「うん、まあ……」
言葉を選びかけてやめた。
“無事帰ってこれたな”とか、“すごいよ、お前”とか、
そういうことを言う人じゃない。
彼は、研究機関では解析系のチームに属している。
転送実験の中枢には関与していない。
だから知ってるようで、何も知らない。
彼は静かに笑って、「これから記者会見とかもあるんだろ、大変だな」と言った。
その一言が、どこかで私を遠ざけた。
“私は戻ってきた”と彼は信じている。
でも私は、まだ“戻れていない”のだ。
朝食のテーブルには、昨夜の残りのシチューがあった。
わたしのレシピ、わたしの手書き、わたしの冷蔵庫。
でも、味がまるで“誰かの料理”のようだった。
息子がスプーンを口に運ぶ。
その姿を見ながら、私は“知っている”と“知らない”の間で揺れていた。
この家族に、私が混ざっていない。
なのに誰も気づかない。 きっと私だけが──
まだ“観測されていない”のだ。
第3章:わたしは、わたし?
鏡の前で、私は笑ってみた。
上手く笑えた。目尻も自然に下がる。口角の角度も間違っていない。
けれど、その顔は──
まるで、“知っている他人”の顔だった。
「昨日と同じ朝」を繰り返す日々の中で、私は少しずつ違っていった。
朝ごはんを作り、洗濯機を回し、リモートで報告書を読み返す。
全部できる。体は覚えている。
でも、記憶だけが薄い膜をかぶっている。
息子の好きなジュースの味を間違えた。
夫の苦手な料理をうっかり出した。
指が動くのに、心だけが“思い出せない”のだ。
夜中、ベッドに入ったあと、私は一人でログを読み返した。
転送中の脳波記録、安定している。再構築データも誤差なし。
すべて成功。論理上は、私はわたしだ。
なら、どうして「わたしじゃない」と感じる?
ある夜、息子が寝ぼけながら私の隣に来た。
「ママ……ひとりじゃないよ……?」
そう言って私の手を握った。
彼の小さな体温だけが、確かな現実だった。
私はそのぬくもりを抱きしめながら、
**「この手を握っている私は、本当に母親だろうか?」**と、胸の奥で問うた。
鏡の中のわたしが、私を見つめ返す。
言葉にできない、ほんのわずかな“ズレ”がある。
それは、静かに崩れ続ける構造の断面のようだった。
わたしは、わたし?
それとも、 “そう思い込もうとしている”誰か、なのか。
第4章:観測される存在、されない愛
「今日は在宅?」
キッチンで夫がコーヒーを淹れながら訊ねた。
「うん。報告書だけまとめればいいって」
そのやりとりは、日常のひとコマだった。
でも、彼の目が一瞬だけ私を“確認”するように揺れたことに、私は気づいていた。
誰も言わないけれど、きっと“違和感”は伝わっている。
「最近、なんか疲れてないか?」
夫はカップを持ったまま、私の顔をじっと見た。
「そう……見える?」
「いや、なんていうか、戻ってきてから“空気”が変わったっていうか……」
言葉がそこで止まった。
私も続きを促さなかった。
それ以上、話したら“認めてしまう”気がしたから。
息子は変わらず無邪気だった。
学校で描いた絵を見せてくれる。折り紙を折ってくれる。
「これ、ママに!」と手渡された小さな折り鶴を、
私はぎこちなく両手で受け取った。
本当に私は“ママ”なんだろうか。
彼がそう呼ぶから、そうでいられるだけじゃないか? 観測されているから「わたし」だと成立しているだけでは?
夜。
息子が寝静まった後、夫が唐突に言った。
「……お前、転送のときに、何か見たのか?」
私は答えられなかった。
「何かが抜けた気がする」なんて、理屈にならない不安を、
この人にぶつけることができなかった。
彼は“記録が正常”だと信じている。
そして、私の言葉が“錯覚”だとしか捉えられないことも知っている。
愛された記憶がある。抱きしめられた感覚もある。
でも、それらが“いまの私”に向けられている保証はどこにある? わたしは、誰の記憶の中で生きている? 本当に“いま”を愛されているのか?
眠れない夜。
静かな家の中で、私は自分の存在が“透明な膜”に包まれているような気がしていた。
誰にも破られず、誰の言葉も触れない場所で、
私は、ただそこに“いる”ことしかできなかった。
最終章:残滓 ― 忘れぬ思い ―
朝、息子の寝息を聞いていた。
その小さな背中が上下するたびに、
私は、“その光景を確かに知っている”と自分に言い聞かせた。
彼の寝顔には、何も疑いがなかった。
私が「母」であることを、彼は一度も疑っていない。
朝日が差し込む中で、私は静かにスマートレコーダーを起動した。
転送実験の全記録。
構造情報、脳波、認識連結のログ。
全ては、正しかった。エラーもなかった。
ただ、**“記録には残らない何か”**が、
私の中でずっと微かに揺れていた。
その日、息子が絵を描いていた。
「これね、ママとぼく」
彼は笑って、二人並んだ人物を指差した。
私の方の人間には、なぜか“顔がなかった”。
「……どうして顔がないの?」と訊くと、
彼は首をかしげた。
「うーん……よく思い出せなかった。
でもママだってわかってるから、大丈夫だよ」
私はその絵を、黙って受け取った。
わたしは、記録にはいた。
わたしは、構造的にも再現されていた。 でも、彼の記憶の中の“わたし”には、まだ顔が戻っていなかった。
その夜、息子がぽつりと呟いた。
「ママ、なんかちょっと違うけど……やっぱりママだよ」
「なんでそう思うの?」
「だって──
ママの匂い、ちゃんとするもん。」
私は笑って、彼の髪にそっと触れた。
涙が、言葉よりも先にこぼれた。
わたしは“完璧な再構築”ではなかったかもしれない。
感情が抜け落ちたのかもしれない。 記憶が少しずれていたのかもしれない。 それでも彼が私を“ママ”と呼ぶ限り── 私は、この世界に“まだ、残っている”。
家の一角に、小さな絵が飾られた。
顔のない母と、笑っている子ども。
その紙の端にだけ、微かに残された指紋のような何かが滲んでいた。
それが“何か”は、誰にもわからない。
でも私には、確かにそれが──**“残された想い”**だと感じられた。
それは、記録にも記憶にも載らなかった。
だけど、確かに残っていた。 それは、 わたしの “残滓(ざんし)”──忘れぬ思い。
──完──
#創作大賞2025
本作は、note創作大賞2025への応募作品です。
長編はこちら
https://note.com/flying_baby/n/nc41ac3c605f9
