乱臣賊子からEUへ ― 中央集権という価値観を問い直す
「乱臣賊子」とは、秩序を乱す者として語られる。
しかし、その秩序とは誰にとっての秩序なのだろうか。
王朝や中央政府から見れば、地方勢力の独立や自治は国家を脅かす存在である。
だから彼らは「乱臣」と呼ばれる。
しかし住民から見れば話は別だ。
もし複数の統治主体が存在し、人々が自由に移動できるなら、
この地域は税が高い
この地域は暮らしにくい
この地域は規制が厳しい
そう思えば別の共同体を選ぶことができる。
統治者は住民を失わないために競争する。
つまり、
国家から見れば「乱」
住民から見れば「選択」
なのである。
裁量と秩序のジレンマ
裁量が大きければ現場は柔軟に動ける。
しかし裁量が拡大しすぎれば独立勢力となり、国家は分裂する。
一方、秩序を徹底すれば中央集権は強くなる。
しかし今度は現場の裁量が失われ、制度は硬直し、運用者同士の癒着も生まれやすい。
秩序は自由を抑え、
自由は秩序を揺るがす。
人類はこの矛盾を何千年も抱えてきた。
EUという実験
ヨーロッパは戦争と統一、分裂を繰り返してきた。
その結果生まれた一つの答えがEUである。
国家は独立したまま、
人・物・資本の移動は自由にする。
完全な統一国家でも、
完全な分裂国家でもない。
ある意味、「分権独立」の実験と言える。
しかし新たな課題もある
市場原理が強く働けば、
「どこが最も住みやすいか」
ではなく、
「どこが最も利益を生むか」
という競争になってしまう。
短期利益やKPIが支配すれば、
教育
子育て
長期的インフラ
地域社会
よりも、資本効率が優先される。
EUの課題は、統治の問題だけではなく、
その土台となる経済思想にもある。
もしかすると
完全な中央集権でも、
完全な自由放任でもなく、
適度な分権、
自由な移動、
そして短期利益だけに支配されない長期的な公共性。
人類は今なお、その均衡点を探している最中なのかもしれない。
「乱臣賊子」とは、秩序を乱す者ではない。
それは、中央集権という価値観から見た呼び名なのかもしれない。
私は循環主義を掲げている。
国家もまた永遠ではなく、循環する存在だと考えている。
しかし、もし国家という枠組みを長く存続させたいのであれば、中央集権だけではなく、分権独立や人の移動による競争を内包した仕組みが必要なのかもしれない。
EUは、その試行錯誤の一つとして見ることができる。
