価値は残る?いいや、流れに乗ったものが残るだけだ
「最終的には価値のあるものが残る」
よく聞く言葉だ。
だがこの言葉には、ある前提がある。
人が価値を見ていること。
現実はどうだろうか。
私たちは日々、動画をスクロールし続けている。
しかしその多くは、
「見たいから見る」ではなく
「流れてきたから見ている」だけだ。
ここで重要なのは、
価値判断がほとんど行われていないという点だ。
本来、価値を判断するには
・内容を理解する
・他と比較する
・意図を考える
こういったプロセスが必要になる。
だがショート動画の環境では、
それらはほぼ存在しない。
では何が基準になっているのか。
それは
再生数だ。
だが再生数は価値ではない。
再生数が示しているのは、
・どれだけ流されたか
・どれだけ離脱されなかったか
つまり
“流通の量”であって“価値の質”ではない。
にもかかわらず、私たちは再生数を見て判断してしまう。
「これだけ再生されているなら面白いはず」
「バズっているなら価値があるはず」
ここで起きているのは、
価値の判断を放棄し、流れに委ねている状態だ。
なぜそんなことが起きるのか。
答えは単純だ。
流れてくるからだ。
ここで例え話をしよう。
北アルプスから流れる清流と、巨大な大河があるとする。
清流は澄んでいて純度が高く、飲料にも適している。
用途としての価値は非常に高い。
だがそこまで取りに行かなければならない。
一方で大河はどうか。
水は濁っているかもしれない。
だが常にそこにあり、簡単に使える。
人はどちらを使うか。
多くの場合、大河を使う。
さらに極端な例がある。
インダス川だ。
水質的には飲料に適さない場所も多く、
「飲むな」と言われるレベルの場所もある。
それでも人はそこで水浴びをし、生活に使う。
なぜか。
それしか手元にないからだ。
これはコンテンツ消費でも同じだ。
私たちは
「つまらない」
「微妙だ」
そう思いながらもスクロールを止めない。
その行動はアルゴリズムにとっては
「見られている」
=「良いコンテンツ」
として処理される。
結果として何が起きるか。
価値があるものではなく、
離脱されにくいものが残る。
つまり今の状況はこうだ。
清流(価値の高いコンテンツ)は存在する。
だが、それは取りに行かなければ手に入らない。
大河(流れてくるコンテンツ)は濁っている。
だが、それでも人は使う。
そしてその大河は、
slop(中身の薄いコンテンツ)でさらに濁っていく。
皮肉なのはここからだ。
私たちはそれが濁っていると分かっている。
それでも使い続ける。
その結果、さらに濁る。
環境は、私たちの行動で固定される。
「価値のあるものが残る」という言葉は間違いではない。
だが正確にはこうだ。
“価値を見ようとする人がいれば、価値は残る”
今はその前提が崩れている。
私たちは価値を見ているのではなく、
流れを消費しているだけだからだ。
