愛と友
SNSで出会ったふたり。
恋なのか、友情なのか、それともまだ名前のつかない何かか。
交わされたのは、感情ではなく“問いかけ”だった。
トランスジェンダーという言葉も、恋という言葉も出てこない。
それでも、ふたりは確かに惹かれ合い、差し出し合い、揺らいでいく。
「あなたなら、これを何と呼びますか?」
名前ではなく、問いかけでつながった物語。
──“愛”と“友”のあいだで、心が揺れる。
#創作大賞2025
【第一章:問いかけの種】
恋って、何を渡すことなんだろう。
言葉? 仕草? それとも、ただ残ってしまった記憶か。
僕は、今日もまた、小さな人形に糸を通す。
手のひらに収まるくらいの、小さな顔。
眉をわずかに傾け、何かを我慢しているような目。
それは、たぶん、僕の“言えなかった言葉”だ。
SNSでは、僕は“クルード(Coudre)”という名前で投稿している。
人形の写真と、短い言葉だけを添えて。
たまに、「美しい」とか「繊細だね」と言われるけど、
どのコメントにも、僕はほとんど返信しない。
代わりに、僕が反応したくなるのは、
“問いかけ”が投げられている言葉だけだ。
たとえば──
「恋って、どこから始まると思いますか?」
そう問いかけてきたのが、“司”という名前のアカウントだった。
彼女(……と、その時は思っていた)は、
簡潔で理路整然とした文章を書く。
けれど、ところどころに、わざと空白を残したような言い回しがあって。
それが僕には、**“触れてはいけないけど、応えてほしがっている”**ように見えた。
『たぶん、定義の一致じゃないですか。
それぞれが“これが恋だ”と思っているものに、お互いが頷けたとき──
それが、恋の発生条件。』
そう返ってきたとき、僕は、うまく呼吸ができなかった。
SNSだから話せたのだと思う。
名前も、顔も、性別も知らないからこそ、
“誰か”と“僕自身”が、ただ言葉だけでつながれた。
そこに惹かれた。
しばらくやり取りを重ねたあと、
司からこう言われた。
「一度、会いませんか?」
その通知を見た瞬間、スマートフォンを手から落とした。
会う──なんて考えたこともなかった。
SNSは、僕が“見えないまま感性を差し出せる”唯一の場所だったから。
でも。
『……どこで会いますか?』
僕は、2日悩んで、そう返した。
言葉の奥にいた“司”という存在に、
会ってみたいと思ってしまったのは、
恋だったんだろうか。
それとも、
僕がずっと削ってきた“問いかけ”に、
司がただ一人、応じてくれた人だったからだろうか。
【第二章:初めてのすれ違い】
カフェの入口に立っている彼女──司を見つけたとき、
僕は声をかけるのに、ほんの少しだけ時間がかかった。
“ああ、この人が、司なんだ。”
スーツの襟がきっちりしていて、姿勢は真っすぐ。
スマホを持つ指がどこか強くて、でも手首の角度は静かだった。
SNSでやり取りしていた彼女は、もっと柔らかい印象だった気がした。
「クルードさん?」
声をかけられて、僕は頷いた。
「……司さん、ですね」
「うん、会えてよかった」
でもその一言のあと、ふたりの間に沈黙が落ちた。
言葉は、あるはずだった。
僕たちは、たしかにお互いに“問いかけ”を交わしてきた。
でも、それが現実の空気に置き換えられたとき、
僕は自分の声をどこに置けばいいのか、わからなくなった。
コーヒーの香りが立ちのぼる。
カフェの空調の音が、妙に大きく聞こえる。
彼女は、丁寧に何かを探すように話してくれた。
最近読んだ本の話。
仕事の話。
僕も、できるだけ応えた。
でも、言葉が表面を滑っていく感覚があった。
SNSでなら、
もっと深く、
もっと遠くまで、
互いに触れていけたのに。
あの夜、何度もDMでやり取りを重ねたあの時、
司は、たしかに僕の“問いかけ”に応えてくれていた。
そして、自分の中の“問いかけ”も、僕に返してくれていた。
だけど──
今ここにいる僕たちは、
“問いかけ”の届かないところに立っているようだった。
最後に、僕は彼女に、小さな人形を渡した。
「これは……?」
「返事、みたいなものです」
彼女は、ほんの少しだけ驚いたような顔をして、
でもちゃんと両手で受け取ってくれた。
会話は、そこまでだった。
それ以上の何かを言葉にしてしまったら、
きっと、“問いかけ”じゃなくなる気がした。
それぞれが、歩いて帰る道。
振り返らなかった。
あの人の背中に、“問いかけ”が残ったままだったとしても。
それでも、僕は、渡せた気がしていた。
渡したのは、答えじゃない。
ただ、
「あなたの問いかけに、僕も何かを差し出したい」と思った、
その気持ちだけだった。
【第三章:静かな問いかけ】
会ってから、返事がこない。
メッセージは、僕から止めた。
司がどう思ったのか、わからない。
でも、あの沈黙が続いたとき、
僕は──
“もう、言ってはいけない”ような気がした。
あの人形を渡したとき、
僕の中では、それがすべてだった。
SNSで言葉を交わしていたとき、
司はたくさんの“問いかけ”をしてくれた。
「恋って、どこから始まると思いますか」
「愛って、“関係性”じゃなくて、“定義”なんでしょうか」
僕はその問いかけに応えることで、自分の芯に触れていた。
感性でも、性でもなく、
僕の中にしかない、“渡したい言葉”だけを見てくれるような感覚。
でも、実際に会ったとき、
僕は何も言えなかった。
彼女の前で、声が出なかった。
うまく笑えなかった。
それでも、僕の問いかけは、そこにあったはずだ。
人形という形で。
沈黙という手段で。
司に何かを渡したかった。
それが、恋だったのかは、わからない。
ただ、
僕はずっと「これは恋だ」と思わないようにしてきた。
だって、
“恋”と名前をつけた瞬間に、
相手は“恋人としての僕”を求めてくる。
でも僕は、
“僕そのもの”を受け取ってほしかった。
「問いかけをしたい」って、
ただそれだけでつながれたことが、嬉しかったんだ。
僕の芯は、
あのとき、確かに差し出された。
だから、返事がなくても──
司がどういう答えを持っていたとしても、
僕は、渡せたことだけを、
正直な感情として、持ち帰っている。
【第四章:揺らぐ構造】
あの人の声は、思っていたよりもずっと、静かだった。
SNSでやり取りをしていたとき、
私は彼の言葉に揺さぶられていた。
少ない文字数で核心を突くような言い回し。
あれは感性だけじゃない。
奥に、確かな思想があった。
だから私は──
「この人となら、“問いかけ”を交わせる」
そう思って、期待してしまったのだと思う。
実際に会ってみて、
たしかに彼は、あの雰囲気を持っていた。
無理をしない、自然な沈黙の人。
でもその空気の中で、私が感じていたのは、
彼の“芯”ではなく、
私自身への“ズレ”だった。
彼が、私を“女性”として見ていたかもしれない──
その可能性に触れた瞬間、
背中に寒気が走った。
私は“女性”として生きてきたつもりはなかった。
自然に、スーツを選んだ。
声も低めだったし、所作も男性的だったとよく言われた。
それは演技でも、抵抗でもなく、
ただ、そうであるほうが“まっすぐ生きられる”気がしていたから。
だけど──
誰かから“恋”の文脈で見られたとき、
私の中で何かが決壊しかける。
「女性として愛される」
その想像が、
“私じゃない誰か”を指しているようで、息が苦しくなった。
彼は、何も言わなかった。
ただ人形を渡してきた。
そのときの表情が、
“本当に私の中身を見ていたのか”
それとも
“性別の向こうに見えていたもの”を見失っていたのか──
わからなかった。
ただひとつ、確かだったのは、
あの出会いのあと、
私は初めて、「恋って怖い」と思った。
怖かったのは、
自分の“性”が否定されたからじゃない。
自分自身で、自分を説明しようとしなかったこと。
そして、
説明しなくてもわかってほしいと、
心のどこかで願っていたこと。
【第五章:沈黙の時間】
――
メッセージを送ってから、一週間が経った。
既読も、未読もわからないSNSは、
沈黙を記録しないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
あのメッセージには、僕の芯を込めた。
「僕にとって恋は、感情ではない。問いかけに応えたいと思った瞬間に、もう始まっている何かだ」
そんなふうに書いたら、
もしかしたら、何かが壊れるかもしれないと思っていた。
でも、言葉にしなければ、何も届かないとも思った。
僕が本当に伝えたかったのは、
「あなたの問いかけに、僕もずっと答えていたかった」──その一点だけだった。
それを、
恋と呼ぶかどうかなんて、もうどうでもよかった。
ーー
メッセージの通知は、見た瞬間から頭の中で何十回も読み返しているのに、
返信ボタンには、一度も触れていない。
言葉がやさしかった。
あまりにも、やさしすぎて。
彼が「問いかけに応えたい」と言ってくれたのは、
私の存在そのものへの返答のように聞こえた。
でも、
そのやさしさに、私は答えられなかった。
“私があなたに見せていたもの”が、
“あなたが見ていた私”と違っていたら──
それが怖くて、言葉が出なかった。
自分の性が、私自身の表現を縛っている気がしていた。
恋を受け取るには、
「女性」として見られなければならない。
でも私は、その定義の中にいたくなかった。
“恋”が差し出されたとき、
私はそれを“恋”として受け取ることに怯えてしまった。
だけど──
同時に、あのメッセージの中にいたクルードは、
“ただ、私の問いかけに応えていた人”だった。
それが、今でも、忘れられない。
【第六章:再接続】
――
もう返信は来ないかもしれない。
そう思いながらも、
僕はメッセージを送った。
『僕にとって恋は、問いかけの連なりです。
感情を共有することより、
相手の問いかけに応えたくなる衝動。
それが恋の輪郭なのだとしたら、
あなたは、僕の輪郭を照らしてくれた人でした。』
僕が本当に欲しかったのは、答えじゃない。
応答だった。
あなたの問いかけが、
僕という存在を、
初めて“外側”から形づけてくれた気がした。
だから、返事がなくてもいい。
それでも、
あなたが問いかけてくれたことを、僕は忘れません。
――
文章を読み終えたあと、しばらく画面を閉じられなかった。
涙が出るほど、やさしい言葉だった。
でもそのやさしさは、
“恋”の形では、受け取れないものだった。
問いかけとしての接続。
それは、私がずっと欲しかった関係だった。
性も、役割も、定義も越えて、
ただ「あなたの言葉に応えたい」と思わせてくれる人。
だから私は──
返信ボタンには触れずに、
彼の言葉を、画面に写したまま静かに閉じた。
それでも、
その夜は久しぶりに夢を見た。
何を話したか覚えていないけれど、
あの人が、同じテーブルに座っていて、
私は、言葉の代わりに、問いかけを手渡していた。
名前がなくてもいい。
意味がはっきりしなくてもいい。
ただ、
まだこの“問いかけ”を手放したくないと思った。
――
ふたりの関係に、恋という名前は必要ですか?
あるいは、これは友情でしょうか。
それとも──
あなたなら、
なんと呼びますか?
【エピローグ:それでも、わたしは】
春が終わる少し前、
街のはずれにあるギャラリーで、小さな展示が開かれていた。
クルードの名はなかった。
けれど、見覚えのある人形がひとつ、飾られていた。
顔のない人形。
手だけが丁寧に縫われていて、
指先が、どこかを指していた。
その方向に、
小さな木製のプレートがあった。
手書きの文字が、一行だけ──
『答えじゃない。
渡したかったのは、
ずっと、問いかけのほうでした。』
私は静かに笑って、
プレートの裏にあった紙に、自分の名前を書いた。
ハンドルネームでもなく、
本名でもなく、
ただ──
「司」
それは、誰にも届かなくてもよかった。
でもきっと、
あの人なら、“問いかけ”のかたちで見つけてくれると思った。
