「産みの苦しみ」という言葉に違和感がある

創作について語るとき、よく使われる言葉がある。

「産みの苦しみ」

たぶん多くの人にとっては自然な比喩なんだと思う。
何かを生み出すことは大変で、苦しくて、時間もエネルギーも削られる。

でも、自分はこの言葉にずっと違和感がある。

なぜか。

それは、少なくとも自分にとって、アイデアが生まれる瞬間そのものは苦しみではないからだ。

むしろ逆だ。

アイデアは苦しみから捻り出すというより、
ある瞬間にふっとつながる。

断片だったものが結びつき、
別々だった感覚が一つの線になる。

言葉になっていなかったものが、
急に輪郭を持ち始める。

この瞬間は、苦しいというより、どちらかといえば自然に近い。

勝手に立ち上がることすらある。

だから、自分の感覚では
「産むこと=苦しみ」ではない。

では、どこで苦しみが生まれるのか。

自分が本当に苦しいと感じるのは、
それが外界に触れた瞬間だ。

アイデアは、頭の中にあるうちは自由だ。

まだ名前もない。
意味も固定されていない。
評価もされない。

そこでは、まだ呼吸している。

けれど、それを外に出した瞬間、世界はすぐに問い始める。

「何を言いたいの?」
「どういうテーマ?」
「誰に向けてるの?」
「結局何の意味があるの?」

こうして、まだ柔らかい思考は、
社会の認知軸へ押し込まれていく。

理解可能な形へ。
説明可能な構造へ。
評価可能な枠組みへ。

ここで初めて、苦しみが発生する。

だから自分にとっての苦しみは、
創造そのものではなく、

創造が世界に接続されるときの痛み

に近い。

この感覚を考えていたとき、
ふと思った。

「産みの苦しみ」というより、
むしろ生まれた側の苦しみに近いのではないか、と。

たとえば赤ん坊。

生を受けたその瞬間から、
光、音、温度、重力、他者――
すべての外界が一気に流れ込んでくる。

苦しいのは、生まれる行為そのものというより、
外界に触れることのほうではないか。

創作もそれに似ている。

アイデアは内側では自由だ。

けれど世界に触れた瞬間、
意味づけられ、評価され、位置づけられる。

認知という世界軸に合わせられる。

されなければ苦しい。
されすぎてもまた苦しい。

このズレこそが、自分にとっての創作の痛みだ。

だから自分は、
「産みの苦しみ」という言葉をそのまま使うことに違和感がある。

苦しいのは産むことじゃない。

世界に触れることだ。

創造の痛みとは、
発想の苦しみではなく、

世界との接触面で起こる摩擦

なのかもしれない。

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