最近の一家心中に思うこと
――不可視の貧困と大衆の無関心について
最近、報道で一家心中のニュースを見る機会が増えた。
そのたびに「痛ましい」「防げなかったのか」という言葉が並ぶが、それだけで終わらせていい話なのだろうか、という違和感が残る。
確かに、似たような事件は昔からあった。
だから「今に始まったことではない」と言う人もいる。
しかしそれは、問題が小さいという意味ではない。
むしろ逆で、昔も今も、衣食住が十分に確保されていない状態が続いているという事実を示しているだけだ。
昔の貧困は「経済の問題」だと分かりやすかった
かつての貧困は、少なくとも原因の所在が見えやすかった。
不況だから仕事がない
経済が冷え込んだから生活が立ち行かない
社会全体が沈んでいる
貧困は経済的不安定に帰属していた。
だからそれは個人の人格や努力の問題ではなく、社会や経済の問題として語ることができた。
これは決して「昔は良かった」という話ではない。
ただ、責任の位置が明確だったという点で、社会としては今より健全だった側面がある。
現代の貧困は「見えない」
一方、今はどうか。
店は開いている
物は溢れている
インフラも整っている
スマホも持てている
そのため、多くの人が
「貧困国よりはマシだ」
「命の危機と言うほどではない」
と考えてしまう。
しかし実際には、
家賃が払えない
食費を削り続けている
病気や介護で詰む
支援制度に辿り着けない
失敗=即生活破綻
といった、命の危機に直結する貧困が存在している。
それでも外からは見えにくい。
結果、貧困は経済や制度ではなく、個人の努力不足や自己管理の失敗として処理される。
「昔からあった」は免罪符にならない
一家心中の動機を見ていくと、多くの場合、
生活の行き詰まり
経済的不安
孤立
「これ以上迷惑をかけられない」という思考
が重なっている。
これは突発的な狂気ではなく、逃げ道が見えなくなった末の判断に近い。
それを
「昔からあった」
「珍しい事件ではない」
で終わらせてしまうのは、
構造を見ないことの言い訳になってしまう。
高度経済成長期の幻想が残っている
現代日本で特に厄介なのは、高度経済成長期の成功体験がまだ捨てきれていないことだ。
普通に働けば生活できる
努力すれば何とかなる
つまずくのは本人の問題
この前提が、今も無意識に共有されている。
しかしそれは、例外的な時代の記憶であって、今の社会構造には当てはまらない。
この幻想が残っている限り、生活が立ち行かなくなった人は「構造の犠牲者」ではなく「失敗者」として処理され続ける。
無関心は冷酷さではなく「設計」の問題
大衆の無関心は、必ずしも悪意から来ているわけではない。
見えない
数字にならない
自分の生活と直結しない
そういう設計の中では、無関心は自然に成立してしまう。
だからこそ、一家心中は「例外的な悲劇」として消費され、次に生かされない。
問うべき順序を間違えてはいけない
努力、自己責任、評価、成功――
そうした言葉を語る前に、まず問うべきことがある。
人が、黙って消えずに生き続けられる社会になっているのか。
昔のように、貧困が経済的不安定に帰属しているとはっきり分かっていた方が、少なくとも問題は問題として認識できた。
今は、「豊かであるはず」という幻想のせいで、問題そのものが見えなくなっている。
それこそが、現代社会の一番の異常さではないだろうか。
