五線譜に再現できる“作曲”という行為を、音楽と思いすぎてないか?

AI音楽の話になると、妙にこういう空気が出る。

「それは本当に作曲なのか?」
「演奏してないじゃないか」
「五線譜に落とせるのか?」

だが、この問いには前提が混ざっている。

“作曲”と“音楽”を同一視しているのである。

 

実際には、音楽はもっと広い。

人類は五線譜より先に、

  • 声を重ね

  • 物を叩き

  • 響きを利用し

  • 空気を震わせ

  • リズムを共有していた

読経も、
詩の朗読も、
民謡も、
環境音も、
ノイズも、
DJも、
サウンドコラージュも、

広義には音表現である。

だが現代では、
「五線譜に再現可能であること」が、
“音楽の正統性”として扱われすぎている。

 

もちろん、
五線譜には大きな意味がある。

再現性。
共有性。
教育体系。
保存性。

それによって音楽文化は発展した。

だが、
再現可能であることと、
音楽であることは、
本来別の話である。

 

例えば、
風を利用して音を鳴らす装置を考えてみる。

空洞を作る。
材質を選ぶ。
長さを決める。
風の流れを調整する。

すると、
自然現象によって音が発生する。

そこには偶発性もある。
揺らぎもある。
毎回完全には再現されない。

だが、
それを音表現と呼ぶことに違和感を持つ人は少ない。

AI生成も、
本質的には少し近い。

 

AI生成は、
従来の意味での“手書き作曲”ではない。

だが、

  • どんな空気感にするか

  • どんなジャンル傾向にするか

  • どんな温度感を混ぜるか

  • どんな違和感を残すか

  • どんな展開にするか

を設計している。

それは、
音を直接演奏しているというより、

“音が発生する条件”

を設計している感覚に近い。

 

しかも現代の音楽制作は、
既にかなり前から変質している。

DAW。
サンプリング。
ループ。
オートメーション。
ピッチ補正。
空間演出。
レイヤー編集。

現代の音楽は、
「五線譜を書いて演奏する」
だけでは説明できない領域を大量に含んでいる。

むしろ今は、

  • 音を選ぶ

  • 質感を配置する

  • 空気を設計する

  • 時間体験を構築する

という、
“音響設計”に近い。

 

だがAI生成になると、
急に

「それは作曲ではない」
「音楽ではない」

という声が出始める。

ここで起きているのは、
音楽そのものへの否定というより、

「五線譜に再現できる体系」
から外れたものへの違和感なのだと思う。

 

もちろん、
従来型の作曲技術には価値がある。

演奏技術にも価値がある。

だが、
それだけが音楽ではない。

 

音楽とは本来、
空気を震わせ、
時間を体験化し、
感覚を共有する行為だったはずである。

ならば、

“再現可能な作曲体系”

だけを音楽と呼ぶ風潮は、
少し狭すぎるのかもしれない。

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