KAIBAは“死”を描いていたのかもしれない

当時リアルタイムで観ていた
Kaiba 。

かなり好きな作品で、DVDまで買っていた。

ただ、今振り返ると、
当時の自分はこの作品を“感覚”で掴んでいた気がする。

記憶を抜き取られる恐怖。
人格が商品として扱われる不気味さ。
身体が交換可能になった社会の歪さ。

そういう構造的な気持ち悪さは、
当時から確かに感じていた。

特に、

「人格や身体すらデータとして扱われる世界」

への違和感はかなり強く残っていたと思う。

けど今になって思う。

KAIBAって、本当に描いていたのは
“記憶”だったんだろうか?

むしろ、

“連続性”

だったのではないかと。

人間って、毎日意識を失っている。

睡眠だ。

けど人は、朝起きると自然に

「昨日の自分の続き」

だと思っている。

これはなぜだろう。

記憶が繋がっているからだ。

昨日の出来事を覚えている。
自分の名前を覚えている。
周囲の人間関係を覚えている。

だから“同じ自分”だと思える。

けど逆に言えば、

“記憶の連続性”

が失われた時、人は何をもって
“自分”だと思えるのだろう。

KAIBAの世界では、

  • 記憶は保存できる

  • 身体は交換できる

  • 人格はデータ化できる

それなのに、ずっと不安定だ。

なぜか。

“記録”は残っているのに、

“主観”

が本当に繋がっているのか分からないからだ。

もし今の自分を完全コピーして、

  • 記憶

  • 思考

  • 感情

  • 性格

まで再現した存在を作ったとして。

それは“自分”なのだろうか。

外から見れば同じかもしれない。

けど、

“今ここで感じている主観”

は、本当にそちらへ移動しているのだろうか。

それとも、

ただ“自分そっくりの別存在”が生まれただけなのか。

昔の自分は、

「記憶喪失の怖さ」

を見ていた。

今の自分は、

「主観の連続性が断絶される怖さ」

を見ている。

だから今改めてKAIBAを見ると、
あれは単なるSFではなく、

“死”

を考察していた作品だったのではないかと思ってしまう。

しかも肉体の死ではなく、

“主観の連続性が途切れること”

としての死を。

当時は言語化できなかった。

けど、あの作品に妙に惹かれていた理由が、
今になって少し分かった気がする。

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