自己決定権を得るということ
最近、「自己決定権」という言葉をよく見かける。
安楽死、大麻、売買春、ライフスタイルの自由。
どれも「自分で選ぶ権利」として並べられる。
ただ、それを眺めていて、どうにも引っかかる。
本当にそれは「自己決定」なのだろうか。
自己決定と言いながら、誰が後始末をするのか
例えば安楽死。
それを「自己決定」と呼ぶとき、必ず必要になる人がいる。
判断を確認する人
実行する医療者
亡くなった後を処理する行政
残された人のケア
本人の決断だけでは、制度として成立しない。
大麻やドラッグも同じだ。
取得までは「自由」でも、精神を壊した後の生活は誰が支えるのか。
医療、福祉、生活保障はどこから出てくるのか。
売買春も、「合意があるから自由」と言うのは簡単だが、お金が絡む以上、経済的圧力や第三者の介入を完全に排除するのは難しい。
どれも共通しているのは、
自己決定と言いながら、その結果を社会インフラが引き受ける前提になっているという点だ。
自己決定権を極限まで突き詰めると
ここで一度、思考実験をしてみる。
自己決定権を本当に最大化するとしたら、どうなるか。
国家医療に頼らない
公的福祉を前提にしない
治安や行政の後始末を求めない
生死や生活の結果を、自分で引き受ける
極端に言えば、国籍を外し、国家インフラから距離を取り、自分たちで共同体を設計して生きる、という方向に行き着く。
無人島というのは現実的な提案ではない。
これはあくまで、概念の最終地点の話だ。
でも、ここまで行って初めて、
「完全な自己決定権」
という言葉が論理的に成立する。
権利だけ欲しい、は成立しない
今よく見かける「真のリベラル」的な主張は、この途中で止まっているように見える。
権利は最大限欲しい
でも社会インフラは当然の前提
失敗したときのケアは語らない
これは自由というより、依存を前提にした要求に近い。
権利は本来、参加・制約・負担とセットで存在する。
そこを切り離して「自己決定権」だけを掲げると、話はスローガンになる。
自分へのブーメランとして
もちろん、これは他人を裁く話ではない。
自分自身も、社会インフラに依存しながら文句を言っている側だ。
完全な自己決定権を本気で引き受ける覚悟があるかと問われれば、正直、そこまで行けていない。
だからこれは、「お前は間違っている」という話ではなく、自己決定権という言葉を使うなら、どこまでを自分で引き受けるつもりなのかを確認したいだけの話だ。
結論
自己決定権とは、「自由に選べること」ではない。
選んだ結果を、どこまで自分で処理できるかという状態のことだ。
それを考えずに語られる自己決定は、自由ではなく、ただの依存に近い。
自分はどこまで社会に属し、どこからを自分で引き受けたいのか。
最近、そんなことを考えている。
