愚か者の恋 (小説)
愚かなまでにキリストに
恋した四十路の男と
教会育ちな二十代のお嬢さんの
慎ましやかなクリスチャン恋愛小説……
信州松本の教会サーガの、
「砕かれる」と「お寺の国のクリスチャン」
のあいだに位置するお話を、
なぜかいまさら公開します。
この小説はフィクションであって、
実際の団体や人物とは
なんの関係もありません。
*
はじめての東京は、四月の雨にしろく煙っていた。赤い丘のどこまでもつづくアラバマ育ちのポール・レイノーは、大都会に馴染めない。彼のことを『パウロ』と呼び続ける、親友の真木に連れられて、ポールはトーキョーの一角にある、殺風景な雑居ビルの前に立っていた。
「せっかく来たのに、どこにも行けなくて悪かったなあ。おれも、案内出来るほど詳しくないんだ」
ほの暗いビルの階段で、真木の声が背中越しに響いた。黒い服の、影のように静かな男が、ポケットに手を突っ込んだまま登っていく。どこか異邦人めいた雰囲気がするのは、去年までアメリカに住んでいたせいだろうか。
「かまわんよ。どうせおれが会いたい人は、この扉の中にいるんだから」
そう言ってポールは、灰色のスチールの扉を前にして、真木と肩を並べた。
「エリーに誤解されるぞ」
親友の口から出た妻の名まえは、一瞬ちくりとポールを刺した。それを振り払うように、ドアノブに手を掛けながら、ポールが言う。
「勘違いするな。エリーの夢を叶えるために会いたいんだよ」
扉の先は、広い空間になっていた。広い、のだろうか。ポールには狭く感じる。教会というのは、もっとこう厳かであるはずだ。ポールは、アメリカ南部のうつくしくひなびた教会建築たちを思い浮かべる。
これはなんというか、場末のスタジオといった雰囲気だ。パイプ椅子の並ぶ、天井の低い、閉ざされた空間に、ひとがたくさん詰めこまれている。どれが彼女だろう、とポールは忙しなく目を配った。
「おお、真木さん!」
度々この教会を訪れている真木に、ひとびとが寄ってくる。ポールはまだあまりアジア系のひとびとを見分けることが出来ない。探している彼女は、ええっと、どんな顔だったっけ。
人混みのなかで、背の低い初老のフィリピン人を紹介された。この教会のリサール牧師である。これから信州松本で開拓伝道を始めようというポールには、心強い先達のようなひとだ。ちいさいけれど分厚い手で、包むように握手をしてくれた。牧師とは、礼拝のあとにゆっくり話をするつもり。
ふと振りむくと、会堂の片隅で、真木が若い女性と会話していた。もしや、あれが、と思って近づいてみるが、真木がそれを制するように言う。
「リサール牧師のお嬢さん、ホープさんです」
フィリピン人の彼女は、まだ二十代の前半といった雰囲気で、踊るような目の、溌剌とした南国の少女だった。彼女ではない。
「わたしの従姉妹が、お世話になります」と、ホープはにこやかに言った。
話は聞いていた。リサール牧師の姪夫妻が、長野県に住んでいる。それも近くの塩尻だそうで、教会が出来るのを楽しみにしてくれているらしい。
「八枝!」
ホープが声をあげた。そちらの方向を向くと、彼女はいた。トイレから出てきたところらしく、ハンカチを鞄に仕舞おうとしている。写真で見たのと、同じひとだ。第一印象は、すこし引っ込み思案なのかな、という感じ。八枝は、真木の姿を認め、すこし照れた顔をした。
「八枝さん、ぼくの親友のパウロです」
「......はじめまして」
八枝は綺麗な英語で言うと、右手を差し出した。やわらかな白い手だった。その手をとりながら、ポールは彼女を観察する。すこし下ぶくれな頬の愛らしい少女だった。あの真木がねえ、と思いながら、ポールは余計なことを口にする。
「八枝さんのことは、真木から聞いていて、ずっとお会いするのを楽しみにしてたんですよ」
ホープの目だけが、鋭く光る。真木がなんでもないふりをして、ポールの足を踏んだ。
「わたしも、パウロさんのお話を聞いていましたわ。日本に宣教に来てくださるなんて、ほんとうにありがたいと思っていたんです」
周囲の微妙な空気に気づかない八枝は、はにかむように微笑んで、ポールの顔を見上げた。
礼拝のあと、ポールは八枝の両親に紹介された。落ち着いた、品のよいひとたちだった。牧師が言う。
「今日は彼らの家に招待されていましてね、そこでお話しましょうか」
それはお誂え向きだ、とポールは思った。彼女の父と特別に話したいことがあった。
ばらの蕾の色づく緑の庭に、生えているような白い瀟洒な家だった。一階は小児科になっていて、脇の玄関からそのまま二階に上がるようになっている。裕福な家だ、とポールは思う。そして信州にある真木の屋敷を思い浮かべた。
結婚してもう長いポールは、そういった育ちや環境の釣り合いというのも、結婚生活に大きく作用すると知っていた。エリーと自分も、似たような環境に育ったふたりだった。ぼくらはもっと貧しい家庭の出身だけれども。
昼食をご馳走になりながら、ポールは信州松本に開こうとしている教会のビジョンを語った。日本語学校にも入ったばかりだ。日本に宣教に来るのは、長年の夢だった。リサール牧師は、やさしく頷きながら、ときどき現実的なアドバイスをくれる。八枝の父である鷲尾氏は、穏やかな表情でふたりの会話を聞いている。
十人が一斉に着けるような大きなテーブルで、八枝とその母に囲まれて座っている真木を、ポールは少し離れた席から眺めていた。日本語がまるでわからない彼には、マツモト、マツモト、という地名ばかりが耳についた。
食事のあと、八枝が真木に何かをねだった。自宅にいるからか、八枝はどこか大胆だった。真木は首を振ったけれど、しつこく説得されて立ち上がった。
リビングの端にあるピアノに向かう真木を見て、そういうことか、とポールは納得する。八枝も近くに腰を下ろし、期待に満ちた顔で彼を見上げた。
ピアノの蓋を開けながらも、真木はまだ渋い顔でなにか言っていたが、八枝に「いいから弾いてくださいな」とでも催促されたらしい。真木がクラシックの曲を弾き始めると、八枝はそっと目をとじて音を楽しんでいた。
「どう思います、あのふたり?」
鷲尾氏がちいさな声で、ポールとリサール牧師に言った。
「天のお導き」
リサール牧師が言う。
「だとしても、真木さんにその気がないんじゃねえ」
策士めいた顔つきで、鷲尾氏がポールの方を伺う。
「その気がないことは、決してないと思います」
ポールは力を込めて、親友を庇う。二年前のある晩、エリーに問い詰められて、トーキョーの教会で出会ったお嬢さんのことを語らされていた真木の表情を思い出しながら―。
けれど鷲尾氏は首を振った。
「二年前真木さんに、今の自分にはそんな資格がないと断られて以来、なんの進展もないんですよ」
ふたたびふたりに視線を戻す。ピアノを弾く真木は、このあいだ四十になった。頭の切れる男で、スマートな雰囲気だから、長い年月のあいだ、女性からの色めいた視線もちらほらと受けてきた。
けれど聖霊を受けたクリスチャンである真木は、神が選んだひとに出会うまでと、独り身で居続けている。そろそろなあ、とポールは心のなかで、エリーに語りかけた。
「まだちゃんと話せてはいないんですが、八枝さんは、うわさ通りのすてきなお嬢さんですね」
八枝は、大学院を卒業したばかりの二十四歳。一曲弾き終えた真木に、無邪気な笑顔を向けている。親友のことを思って、ポールは切なくなった。あの子はあまりに若すぎる。そのうえ信州に置いてきたあの封建的な家のしがらみが、奴を縛っているのだろう。ならば、あいつの背中を押してやらなくちゃ―
「人手が、欲しいんですよね」
ポールは呟く。ふたりの顔がこちらに向く。
「ピアノは、真木が弾けるでしょう。ソングリーダーは、ぼくがやるしかない。説教もぼくです。けれど日本語は出来ませんから、通訳がいる。まあ、当面は真木にしてもらうつもりだけれど、あいつは教会通訳なんて経験がないから、不安がっているんですよ」
牧師と鷲尾氏の顔付きが真剣になった。ポールはひと息つくと、厚かましいことを一気に言葉にする。
「八枝さんを、うちの教会に頂けませんか?」
くっ、とリサール牧師が声を詰まらせた。八枝は優秀な通訳だった。手放すのが惜しいのだろう。鷲尾氏の懸念は、別のところにあった。
「条件にも依りますがね、真木さんの」
「そこはもう、あいつには腹をくくらせるつもりです」
「真木さんはご存知なんですか、この話」
「いえ、ぼくが祈っていて思い付いたんです。妻のエリーは、ずっと真木を結婚させたがっていましてね。八枝さんのことを聞いて、会えるのを楽しみにしてたんです。残念ながら、一緒に来ることは叶わなかったんですが。亡くなった妻のためにも、あいつの身を固めさせたいんですよ」
亡くなった妻、と言った瞬間に、怪訝そうだったリサール牧師と鷲尾氏が納得したふうに、伏せがちな視線を交わした。かすかに話は伝わっていたのかもしれない。沼に落ちてしまわぬように、ポールは懸命にもがきながら、明るい声を出した。
「八枝さんが来てくれたら、明るくなるでしょうね。真木とふたりだと殺風景でいけない。あいつは暗いから、若い奥さんでも貰って、すこしは明るくなった方がいい」
エリー、エリー、エリー、と心のなかで呟いた。真木といると、彼女の不在が、冷たい刃のように感じられる。極東まで来たのに、いつまでたっても逃げられらない。自分たちには変化が必要だ。忘れたいわけじゃない。けれどこのままでは耐えられない。
「では、八枝にも聞いてみますかね。松本には妻の実家がありますし。妻の母は、あの子が可愛くて仕方ないらしくてね。喜んで居候させてくれると思いますよ」
あとは、と三人の視線は真木に寄せられた。彼はピアノスツールに腰かけたまま、うれしそうな表情を隠しきれずに、八枝の話に相づちをうっていた。
*
真木がそれを聞いたのは、二週間後のことだった。面倒だから今日はカップ麺で、と炊事係の真木が、うす暗い台所でお湯を沸かしているときだった。
まだ日本に来たばかりのパウロは、珍しいのかカップ麺でも喜んでくれる。おお、エリーよ、君がいたら何て言うだろうね。あれほど健康志向だった君なのに、残されたご亭主はインスタントラーメンに喜んでいるよ。
「だから、八枝さんをこっちの教会にください、と言ったんだ」
「は?」
お前、頭がどうかしたのか? という思いで、真木はパウロを見つめる。パウロはそれを交わすように、席を立ち上がると沸騰しているヤカンの火を止めた。真木はその肩を掴む。
「意味がわからない」
「お前が通訳なんかできないって言ったんだろ。だから頼んだんだ」
背丈はあまり変わらないけれど、体格はパウロの方が勝っている。するり、とパウロは逃げて席に戻った。
「あのお父さんが許すはずないだろう......」
「鷲尾さんがそんなに怖いか?」
「お前は知らないだろうけど、あのひとは愛娘家で有名なんだ。このあいだ八枝さんに近づいた男がいて、ひと揉めあったんだ。その男は教会を出ていったらしいけれど」
正月、東京に行ったときのこと。やたらと八枝に近い男がいる、と真木は気になって仕方なかった。まともなクリスチャンには見えなかった。八枝の態度も、嫌がっているのかいないのか、あまり判然としなかった。歯がゆいと思いながら、真木はただ遠くで見ていた。
自分なぞに口出しをする権利があろうか、十五も年上のおじさんなのに。
「鷲尾さんは、快く承諾してくれたよ。八枝さんも、わたしなんかでよければ、と言ってくれたらしい」
「八枝さんが、松本に来ると言ったのか?」
「そう、それで鷲尾さんが、今週の日曜日ここに来ることになっている。お前と話し合うためにね」
そう言うと、パウロはラーメンの蓋を開けた。まだ二分しか経っていないのを、手元の時計で知っていたけれど、真木は黙っていた。固い方が好きなひとだっている。それに、この衝撃に比べれば、そんな程度なんであろう。
「......嵌めたな」
「そうでもしないと、お前はずっと遠くから眺めてるだけじゃないか」
「そのうちおれなんかより良いひとが現れるよ」
「失敗を恐れてどうする」
「もう四十だぞ、恋愛ごっこには年を取りすぎた」
パウロが鼻で笑う。そしてすこし寂しそうに言った。
「おれは幾つになっても、エリーに恋しているがね」
言葉が見つからなかった。真木は黙って蓋を開けると、やわらかくなった麺をかき混ぜた。エリー、エリー、エリー。君の手作りの料理が恋しい。君がいなくて不甲斐ない男どもを、君はいまあちらで笑っているのだろうか。
*
礼拝が終わると、ちょうど昼餉の時間だった。まだ始めたばかりの開拓伝道だ。礼拝に来ていたのも、たった五人だったけれど、鷲尾氏はこの教会が気に入った。きっとここには未来があるだろう。目にはさだかに見えずとも、これから開けていくような、輝かしい神の約束を感じて、鷲尾氏は満足した。
「なにか奢りますよ」
鷲尾氏はパウロと真木を誘った。このふたりは、自分より一回りと少し若い。けれど彼らの信仰を、鷲尾氏は信頼していた。今日のパウロの説教もすばらしいと思った。
「しかし、すごいお屋敷ですね」
お城からも徒歩圏内にある、数百坪はあろうかという大きな屋敷である。板塀がどこまでも続いていて、立派な数寄屋門を構えている。鷲尾氏も一瞬気後れするような家だった。古い家とは聞いていたものの、ここまでだとは想像しなかった。
「鷲尾さん」
女鳥羽川の畔にある、老舗の洋食屋の奥まった席につきながら、真木が日本語で改まったように言った。鷲尾氏は、愛娘が恋している、年を食った王子さまの神経質そうな顔を眺める。
「ぼくはいま、親戚から絶縁されている身なんです」
「それは、また」
「母が亡くなったとき、ぼくはあの家の仏壇と神棚を処分し、寺の檀家を辞めたんです。それ以来、分家の親戚たちはぼくを死んだ人間として扱うし、近所でもほとんど村八分です」
「この街は狭いでしょう。ああ、あれが真木の本家のろくでなしだ、と誰もが知っている。どこへ行くにも、背中に目立つ十字架を負っているんです。名乗れば、地元のひとたちはすぐわかってしまう。ぼくはいま、近所で挨拶も返してもらえないような人間なんです」
真木は苦しみに捻じ切られるような表情で、言葉を重ねる。
「ぼくが不誠実に見えただろうことは、謝ります。初めて会ったときから、もし八枝さんをぼくの妻に望めるなら、それ以上に幸せなことはない、と思っていました」
「ずっと黙っていたのは、あの幸せなお嬢さんを、この地獄に巻きこみたくなかったからなんです。仏壇とも先祖のしがらみとも無縁な八枝さんに、呪われた真木の姓を名乗ってくださいとは、どうしても言えなかった」
そう言うと、真木はふぅ、と息を吐いた。その息とともに、重いものが鷲尾氏にも忍び寄った。先祖代々のクリスチャンである鷲尾氏からは遠い世界が、いま目の前で繰り広げられている。
鷲尾氏は、懐かしい味のハヤシライスをつつきながら、思案した。言葉のわからないパウロは、さっきから静かに食事に集中している。真木の前のチキンカツレツだけが、手付かずになっていた。
「どうして真木さんは、そこまでしてお寺の国のしきたりに逆らうんですか」
彼の口から、言ってほしかった。彼の話を聞きながら、日本人として、呼吸を塞がれるような苦しさがしていた。真木の口から出る答えにすがる思いで、鷲尾氏は娘婿になるかもしれない男を見つめた。真木は、ふっと微笑んだ。
「鷲尾さんも、お分かりだと思いますよ。ぼくはキリストに恋しているから、これ以外にどうしようもないんです。もっと器用に生きることも出来ないで、ただ愚かにキリストの示す道を行くしか出来ないんです」
「どうぞ、貰ってください」
喜びにあふれた真木の目を見て、そう口をついてでた。きっとあの子は苦労するだろう。建売の一戸建にでも嫁がせる方が、あの豪壮な地主屋敷に嫁がせるより、ずっと賢いかもしれない。けれどなにより娘には、キリストを愛するひとと結婚してほしかった。
「どうぞ、うちの娘を」
真木が息を呑んだのがわかった。今時こんなふうに、娘を押し売りする父親はいないだろう。八枝の気持ちはわかっていた。あとは彼の覚悟を決めさせるだけだったのだ。固まっていた真木の表情がすこしずつ弛んで、嬉しそうな光が瞳に宿った。
「八枝さんに、コートシップを申し込ませていただいても、よろしいでしょうか?」
「世間知らずの娘ですが、どうぞよろしく」
これでよかった。少し寂しさを覚えながら、鷲尾氏は会計を済ますと、街にでた。外で待っていたパウロは、すこし買い物があるので、と違う方向に出ていった。きっとふたりきりにするための口実だろう。橋をわたりながら、視線の先にたちはだかる美ヶ原の山を眺める。
ここ松本は、鷲尾氏にとっても、妻の故郷以上の土地である。三十年前、医学生だったころ、浅間温泉にちかい下宿に住んでいた。それで妻と出会ったのだ。だからなにもかも懐かしい。
由紀子とふたりで歩いていた頃は、この縄手通りも、こんなきれいな観光地ではなくて、もっと雑多で、生活の匂いがする通りだった。そんなことを思い返しながら、今年五十四になる鷲尾氏は言う。
「娘なんて、寂しいものですね。すぐに手放さないといけない」
ははは、と真木は居心地悪そうに笑った。
「そんじょそこらの男には譲りたくなかった。いままで八枝に寄ってきた男は、ビザや財産目当てだったり、ノンクリスチャンだったりと、まともなのがいませんでしたしね」
「ぼくだってまともじゃありませんよ」
「そうですね、真木さんはまともじゃない。キリストキチガイだから」
はっ、と真木が鷲尾氏を見る。ふたりは川原に降りてきていた。
「世間から、そう呼ばれているのでしょう。教会のひとが教えてくれましたよ。あの高田さんっていう姉妹が」
そうでしたか、と真木は頭を掻く。
「父親が言うのも可笑しいけれど、八枝は良い娘ですよ。ものすごく美人でもないし、ものすごく賢いわけでもありませんがね、あの子はとても素直なんです。神さまのみこころ通りに、ひたむきに育ってきた、ほんとうに宝物のような娘なんです」
「そんなお嬢さんを、ぼくなんかが頂いてよいものでしょうか」
「あげずに済むのなら、手元に置いておきたいですがね。でもあの子の夢は、結婚して家庭を築くことですし。初めてあなたに会ったときから、分かっていたんですよ。神さまが八枝に備えくださっているのは、あなただってね」
「年は離れているけれど、あなたたちはよく似合いますよ。あなたが東京に来るのを、あの子がどれだけ楽しみにしていることか。真木さんの話をするときに、八枝はすぐ頬を赤くするしね」
八枝に怒られるだろうなあ、こんなこと喋ってしまって、と真木の顔を覗くと、彼は胸の痛そうな顔をしていた。このひとは、あまり恋にわれを忘れるってがらではなさそうだ、というのだけが、鷲尾氏の気がかりだった。
「......大切にしてくださると、約束していただけますか」
真木の表情は、すこし悲痛げだった。
「精一杯を尽くします。ほんとうは八枝さんには、もっと若くて良い男の方がいいのだけれど」
「それでも、真木さんは八枝のことを愛してらっしゃいますか?」
「ええ。初めて会った日から、ぼくはあのすてきなお嬢さんを愛しています」
なにかが哀しげで、鷲尾氏は満足したような、胸が痛いような気持ちがした。けれど神さまがあの子に選んだ道なら、それが何よりなのだ。
そんなことを思っていたら、帰り際にふらりと立ち寄った、コンクリート造りの重厚な老舗の菓子店で、妻と娘の好きなお菓子をあれこれ、つい紙袋いっぱいに買い込んでしまった。
父親なんて、無力なものだなあ。帰りのあずさの車内で、鷲尾氏はため息をついた。
ひとつくらいなら、食べても気づかれないだろうか。紙袋をごそこそさせて、一枚だけ、白鳥のはばたく缶から、しろいポロポローネを取りだした。窓のそとには、夢のような色に染まりゆく南アルプス。それを眺めながら、お菓子が口のなかで、淡く溶けていった。
【the end】
