暗闇の灯 (小説) 2
ひとつ前 暗闇の灯 1
※この小説は虚構であって、実在の団体や人物とは何の関係もありません※
3
それにしても立派な屋敷だ。高い木々に遮られて、道からは家の姿がみえない。門を入ると、さまざまな濃淡の枯れた草木が、たかくひくく波のように生え出る庭にでた。最近ときどき見るナチュラリスティックガーデンというやつらしい。手前に砂色の洋館のついた、灰色の木の張り巡らされた古民家が、縦に連なるように奥へのびている。
背教者の灯からすると、この屋敷に足を踏み入れるのは獅子の穴に入るような気分である。ダニエルを助けたまいし神も、はて今の灯を助けたもうかどうか。その神を信じていないのだから、救いようがないだろう。
ここで待ち受けているであろう、真木やパウロといったひとたちは、灯が背をむけて後にした世界の骨組みをなしている。その世界は聖書の一言々々で成り立っていて、どうしたって叶えられないような高い基準を指し示している。いまさら裁かれるのが怖いのだろうか。彼らに裁かれたとて、わたしになんの関係があるだろう。いっそ裁きの及ばぬ枠の外に出てさえしまえれば、そう思って生きてきた十幾年である。
古めかしい屋敷のなかは思っていたよりも賑やかで、入ってきたときこそ注目を浴びたものの、すぐそのなかに紛れることができた。今日は洗礼式をしていたらしい。洗礼を受けたのは、二十代前半の日本人の女の子だった。彼女はさきちゃんといって、八枝の叔父である飯森教授の学生らしい。水から上がったばかりなのか、目は輝いて、黒い髪がまだじんわりと濡れている。灯も顔見知りくらいに知っているフィリピン人のマリアンとその家族、灯の知らない教会のひともたくさんいた。
八枝はどこかに消えてしまい、だるまストーブがじんじんと暖かい座敷で、灯は教会のひとびとのなかに取り残された。いくつものちゃぶ台がとぎれとぎれに繋がって、川のように広い座敷を分けている。ひとびとはそれぞれに席を見いだして、紙コップに魔法瓶から勝手に茶を注いで寛いでいた。
ここに属さない灯は、どこに身を置けばいいのかさえわからない。パウロがそんな灯にすばやく声をかけ、一隅に誘って座布団にかけさせた。
「やっと来てくれましたね。灯さんが来てくれるって、八枝ちゃんすごく喜んでましたよ」
湯気の立つほうじ茶を注いでくれながら、パウロが言う。それを受けとって、紙コップは灯の手のひらのなかにほわほわと暖かい。
この日本語の達者な牧師に会うのも、母の葬儀以来だった。この国に身寄りのないパウロは、真木と八枝だけでなく、八枝の両親からも家族として遇されていた。だからだろうか。大して顔を合わせたこともないのに、相手は妙に灯に親しみを抱いているような違和感を感じる。牧師なんてこんなものなのかも知れないが。
「母の葬儀では色々とお世話になりまして」「いや、ぼくは何もしてないって。でもずっと祈ってますよ」
と言いつつ、パウロはすこし首をかがめ、向かいの席の灯を覗き込んでことばを接いだ。
「まだ祈られることにも反感があるのかな? だけれども本当のことだからねえ」
しゃあしゃあとパウロが言う。食えない牧師め、と灯は思う。
「いまこの坊主め、って思ったでしょ」
パウロはまだふさふさ生えているブロンドの髪を撫でてみせた。
「いいえ、坊主めじゃなくて、牧師めって思ったんです。区別くらいつきます、なんていっても放蕩娘ですから」
灯の挑発的な口ぶりに、パウロの深く青い目がにやりと光った。
「まだ帰ってくる気はないんでしょう? でも、灯さんはきっと帰ってくるよ。呪いの言葉だとでも取ればいいけれどね。」
灯はわざわざ言葉を返す気にならなくて、パウロから目をそらすと、ストーブとひとびとの熱気で暖まったひと続きの広い和室を見渡した。座敷の中央で、教会のひとたちが今日洗礼を受けた女の子を囲んでいる。端の方で、久米と真木がなにか話し合っていた。なんの話しだろう、とそちらを窺う灯に、敏感に気づいた久米が手招きをした。灯が彼らに合流するのを見届けるとパウロはどこかに消えた。
「ふたりでお城に登ったんですか? すごい組み合わせだなあ」
座布団に腰を下ろした灯に、真木がすこし可笑しそうに言う。
「シャペロンが階段を上がりたくないっていうんですもの」
灯が軽い皮肉を込めて言った。久米はシャペロンという言葉がわからないらしい。真木がぞんざいな説明を施している。
「久米くんはなかなか面白い青年でしょう。いまも根掘り葉掘り、うちの祭祀権について質問を受けていたんです」
「叔父さんが亡くなられたって聞きました」
「いろいろ複雑でね、叔父は真木の分家のひとなんだが、母の弟でもあるんです。つまりぼくの母が分家から本家に嫁いできたってだけだけど。そういうわけで、ぼくは本家と分家の祭祀権の始末を、両方背負いこまされることになってしまった」
はあ、と仏壇に縁の無い灯はうやむやに頷く。
「灯さんのお母さんのときは、教会でお葬式をしたんでしょう?」
久米が聞く。
「ええ、でも伯父が色々してくれたので、わたしは突っ立っているだけでよかったの」
「ぼくの祖母も灯さんのお母さんと同じ時期に亡くなったんです。田舎の典型的な仏式の葬儀でね。ぼくはなんの責任もない次男坊だから、ただ言われた通りに南無南無したんです。だけどとても後味が悪かった」
「だれもが真木さんみたいにならなくちゃいけないってことはないんじゃない?」
灯が冷静に言うと、当の真木もそれに同意した。
「久米くんは家を継ぐ必要もない自由な立場なんだから、その立ち位置で聖霊に導かれるままに振る舞えばいいと思う。親戚に絶縁された人間をわざわざ手本にすることはないよ」
「聖霊に導かれて行動したならなんの呵責もなかったでしょうけど、ぼくはただその場の空気を壊す勇気がなかっただけなんです」
久米の顔付きは険しい。
「なにかを強いられてするのと、導かれてするのには大きな違いがあるね。仏壇を処分することだって、それが強いられたものならもはや宗教だ」
真木が言う。
「宗教だと思ってましたけど?」
と灯。
「ぼくは宗教を生きているつもりはまったく無い。なにかを組織にしたり教義だの教条にした途端に、固まって死んでしまうものがあるでしょう。主は霊である、主の霊のあるところに自由がある、と書いてあるじゃありませんか。固まって死んでいるなら、それは人間の作り出した物であって、ぼくはそんななかで生きることはできない」
「わかりません、わたしには」
灯は躊躇せず言った。
「頭で分かるものじゃありませんね。灯ちゃんは頭が良いから躓いたのかもしれない。ぼくはこの世の基準から愚かと映ろうが構わず、人生を賭けて聖書のことばを信じられるようになったときに、そこに一本筋の通ったものが出来て、悟りを開いたような、すっと道が開けたような思いがしましたね。二十何年前のことだが」
「わたしはとても狭い価値観のなかに閉じ込められてきて、その世界で決められたように振舞い、決められたように成長することを求められてきたんです。それを疑いもせず留まっている八枝みたいなのもいるけれど、わたしには既に答えの定められている場所で予定調和な生き方をするなんて、自分を殺すにも等しいことだったの。どう、驚きました? この屋敷にまで来てこんなこと言うひと、珍しいんじゃありません?」
灯は男たちを見ると、あでやかに微笑んでみせた。久米はすこし呆気にとられていたが、それを見て忍び笑いをした。
「とても八枝さんの従姉妹とは思えませんね」
「八枝の家族が集まると、いつもこのひとで手こずるんだよ」
灯が真木を睨む。信仰を離れたとはいえ、親代わりの裕福な伯父の家は、灯にとって失いたくはない居場所だった。姪である灯からすれば、血も繋がらない年をくった娘婿に過ぎぬ真木の方が新入りなのである。
「答えは見つかりましたか、そちらの世界で」
久米がしずかに聞いた。
「ぼくはいくら探しても見つからなかった」
「絶対的なものなんて無いんじゃないかっていうのが、最近のわたしの答えだわ」
「碇がなくて波に揺られるがままの船みたいなものですね。それは辛い生き方だ。八枝と違って、久米くんもぼくもなんとなく灯ちゃんのいる場所は想像できますからね」
そう言うと真木は痺れた足をぎこちなく伸ばして立ち上がった。八枝の手伝いに台所へ、と言う彼に付いていってみると、そこにはパウロを含めもう何人かのひとがいて、手は充分足りていた。
キッチンは改装されていて、明るくいかにも使い勝手がよさそうだ。窓に面した白いシンクに、黄金色の西日が溢れている。射しこむ光を遮るように立った八枝の隣に、足台にのりながらまだ背伸びして、ちいさな女の子がお玉を手に水を撥ね飛ばしている。それはマリアンの娘だった。
「ルイちゃん、水浸しになっちゃうからやめて、お願いだから」
「いや」
きっとした目付きでルイが八枝を睨む。すこし浅黒い肌に大きな黒い目をして、頬がふっくらとしている。目鼻立ちの整ったちいさな美人さんだが、ひと縄筋ではいかなそうである。
もうビーフシチューは付け合わせとともに皿にまで盛られていて、ひとびとが蟻のように座敷まで運んでいく。カウンターの上で、パウロがフランスパンを切って籠に盛っていた。カトラリーの場所が分かるでもなし、手持ち無沙汰の灯は流しに近づく。
「ルイちゃん、お姉さんに言いなさいな。わたしは二歳、イヤイヤ期ですって」
うんざりしたような声で八枝が言う。いつも子守りをしているのだろう、まるで自分の子どもででもあるかのような口ぶりだ。
「わたしイヤイヤキじゃないの。スティームホスターをしてるの」
「スティームホスター?」
知らぬまに宇宙船にのっていて、大気圏の外まで打ち上げられていたらしい。灯にはルイの言葉がさっぱりわからない。
「タガログ語なの?」
「違うと思うわ。マリアンに聞いてもわからないって言うもの。かなり便利な言葉みたいだけど、何にでも使えて」
「スティームホスターはね、わからないってことなの」
ルイはちいさな尖った顎をあげ、得意げに頭をそりかえらせる。
「はあ、そうなの」
それ以外なんと答えろというのであろうか。大きな鍋にこびりついた汚れを落としながら、あしらうように八枝が言う。
「灯ちゃん、そのスティームホスターな怪獣をみんなと一緒に、あちらの部屋に連れていって頂戴。ここにいるとお皿なんて洗えやしないわ」
そんなに上手くいくだろうか、と灯がいぶかしみながら声をかけると、ルイは意外にも素直に従った。ぺたぺたと冬なのに裸足のルイを連れて、くろぐろした廊下を座敷へ渡る。
ルイは教会育ちらしく人懐っこい子だった。あなたなんてなまえ? と灯の名を聞きだすと、灯のとなりにぺたんと座り、ちいさな皿のビーフシチューを、不器用なスプーンで食べはじめようとした。
「ルイ、お祈りを待ちなさい」
ルイは父親に叱られる。それをみてパウロが食前の祈りをはじめた。十数人のひとびとがみな頭をさげてそれを聞いている。灯もルイの手前、頭を下げないわけにいかない。
祈りが終わってから、八枝がすべりこむようにして座敷に入ってきた。真木がその隣の席を空ける。八枝は夫にほほえむと、そこに座して、その前にいた洗礼を受けたばかりのさきちゃんに話しかけた。
「さきちゃん、受洗おめでとう! ほんとうにごめんね、立ち会ってあげられなくて」
「いえいえ、大丈夫です。でも水から上がったときに、なんだかすっごくキラキラして、明るくて、軽くなった気がしたんです。今更かもしれないけど、でも神様って本当にいるんだなって感じました」
すこし垢抜けないけれど、肌がきれいな女子大生だ。なんら特別なところはないけれど、眩しいばかりに目が輝いている。
「八枝さんは忙しいって聞いていたでしょう。だから今日来ても、パウロさんとかしかいないのかなって思ってたら、教会の人達がみんな来てくれて、こうしてわたしのことを祝ってもらえて、それも嬉しかったです」
八枝は灯に経緯を説明する。敷地内の蔵を整理をしていて古文書を見つけた八枝が、日本史が専門の叔父に相談したところ、送られてきたのがさきちゃんだった。さきちゃんと八枝は古文書の崩し字を解読しながらも、次第にもっと深い話をするようになった。さきちゃんはずっと、この世はいつまでも続くのかとか、世の終わりについて関心があったらしい。けれど嘲笑を恐れてずっとそれを秘めてきたのであった。ふたりは黙示録を読みはじめ、半年後ついにさきちゃんは洗礼を受ける決意を固めたのだという。
この普通の女子大生の顔から、あられもないくらいの喜びが溢れているのを見て、灯は恥ずかしくてひそかに目を逸らした。きょう洗礼を受けたばかりのさきちゃんには、その生のままの感動を衣に包もうなどという思いは一切欠けているらしい。きっと一時的に、日本人であることさえ忘れてしまっているのだろう。この環境であれば不思議でもないけれど。
わたしはこうでなくてよかった、こうなったこともなくてよかった、灯は心のなかで少し高みに、少し距離をとりながらこの一連の光景を見て思った。スプーンで肉の固まりを掬うと、肉はほろほろと口に柔らかい。八枝は何かあるたびにビーフシチューを作るのだ。口のなかにほんのりと甘酸っぱさが広がった。こうなったことがないのだろうか、わたしはあちらの世界で、こういうふうに喜んだことがないのだろうか。
はじめて洗礼を受けたとき? 灯が洗礼を受けたのは十四の時だった。あの頃は、周りの期待に応えることに精一杯だった。十二才の時に両親が離婚して、不安定になった母はうねうねと神から離れたり戻ったりしていた。それから庇おうと、祖父母や伯父夫婦は灯がキリストに導かれるように心を砕いた。母よりも、母の実家のひとびとの方が、土台がしっかりとして安心感があった。経済的にも、精神的にも。そこに居場所を見いだすために、灯は敏感にじぶんに求められているものを察した。洗礼も受けたし、教会にも通ったし、聖句も覚えたし、教会のピアニストもした。
忘れていただけかもしれない。灯は、じぶんがいまのさきちゃんのようであった時代を思い出して、少し顔を赤らめた。わたしにもあった、こういうふうにあられもない感動に身を委ねたことが。十七のとき、アメリカから宣教師が来て特別集会が開かれたとき。会場を包みこんだ熱気に浮かされて、あのとき灯は『聖霊』を感じて泣いたのだった。あれは何だったのだろう。あの時の感覚が、わずかに灯のなかに甦った。あの時のわたしは、いまのさきちゃんと同じだったのだろうか。
「さきちゃんはとっても嬉しそうで、見ていてわたしまで幸せな気持ちになるわ」
八枝が愛おしげな眼差しをした。
「わたしはどうだったかしら、もうあんまりに昔なので思い出せないわ」
三十になるかならぬかの八枝が言うには多少大げさな言葉だが、彼女が洗礼を受けたのは十才のときだったので、あまりに幼なくて覚えていないのである。
「ぼくも八枝ちゃんみたいに子どもの頃に洗礼を受けたから、そのことはあまり印象に残ってないんだけどね」
座布団のうえに胡座をかいたパウロは、そう日本語で言うと、八枝に向かって、英語で話したいから訳してくれるかい、と聞いた。八枝がこくんと頷く。
「ぼくはホームスクーラーで、教会の備品みたいな一族に生まれたんだ。それでも十代の初めの頃、ぼくは密かにこの世を追い求めていた。教会にはちゃんちゃんと行くし、親の前では良い子に振る舞っていたけど、心はあちら側に飛んでいた。野球チームに入っていたんだけど、そこで会う友だちは教会とはまったく違う世界を見せてくれて、ぼくは彼らから悪いことを色々覚えたんだ。
まるで体と心が分離しているみたいな時期だったよ。教会のひとたちに受け入れられるための建前の自分と、この世に心惹かれる自分。十五になった時に、ユースキャンプに誘われたんだ。ユースキャンプっていうのは女の子と出会うための場所みたいに思ってたからね、ぼくは行くことにした。
残念ながら、可愛い女の子には出会えなかった。なぜってぼくの可愛い女の子は、そのときまだ十歳だったし、遠くのユースキャンプなんかに行かなくても、同じ教会のすぐ傍にいたからね。けれどそのキャンプで、ぼくはキリストに会ったんだ。
ある夜の集会でのこと、まだ若いアフリカ系の牧師が説教をしていた。熱気にあふれたひとだった。なにを語っていたんだろう、あまり内容は思い出せない。でもなにか、十人のおとめの話しをしていた気がする。五人は賢くて、五人は愚かだったっていう、例えばなしを。
愚かな五人も灯は持っていたんだ。だけれども灯のなかに油が入っていなかった。そして花婿に連れていってもらえなかった。その若い牧師は、壇上を行ったりきたりしながら、そんな話をしていた気がする。油を受けなくてはいけない、神の霊を受けなくてはいけないって。
そのときなぜかその声の後ろから、ぼくは神の声を聞いたんだ。それがどういう感覚なのか言い表せはしないけれど、その訛った牧師の言葉の裏から、びんびん響くように神がぼくに語りかけていた。神はぼくの名前を呼んでいたんだ。ポール、ポール、と神に呼ばれてぼくは祭壇の前に出ていった。そしてその場所で聖霊のバプテスマを受けたんだ」
通訳を介しながら、そこまで語るとパウロは照れたように笑った。
「もちろん聖霊を受けたからといって、それさえもスタート地点に過ぎなかったんだけどね。でもその日に聖霊を受けて、あたらしいいのちを頂いたから、いまぼくは日本に来て牧師なんかしてるんだなあ」
妻を失い、ひとり日本で牧師をしているパウロも、もう齢四十五を数えた。彼のまわりをその教会のひとびとがあたたかく囲む。そのすべてを眺めながら、灯も独りきりだった。
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夜も更けてひとびとはみな帰っていった。さんざめき賑わっていた屋敷は、大人が三人だけ残されて、しんしんと重い冬の空気に沈みこんだ。台所の片付けもあらかた済んだころ、真木が灯に、今度出す作品の見本のようなものはあるかと聞いた。
来たか、と思った。灯は黒い布表紙の厚いポートフォリオを差し出した。それをカウンターの上に広げて頁をくくると、ぱらぱらと透き通った色彩が溢れる。最後まで見終わって、真木は丁寧にそれを閉じた。そしてシンクの片付けをしている八枝を見やると、ゆっくりした口調で灯に言った、
「搬入の手伝いには行けません」
八枝の言った通りである。
「八枝はおばあさまの使いですから、彼女に個展の手伝いを禁じることはしません。個展の期間中この屋敷に灯ちゃんを泊めるようにというのもおばあさまの指令ですから、それも拒みません。でもぼく個人は関わりません。この教会があなたの個展を後援しているというふうに映りたくないんです」
激流のように灯のなかにさまざまな言葉が渦巻いた。けれど灯は馬鹿ではなかったから、真木がそう言わざるをえない立場というのも理解はできた。理解はできても、快くはなかった。灯にとってその作品は、自分の一部である。それを否定されることは、剥き出しの内臓をえぐられるような痛みをもたらした。
「うつくしいとは思います。ぼくは写真はわからないけどね。だけれど、灯ちゃんはもっと自分を大切にしたほうがいい」
母の病と死と弔いは、灯のなかの家族への思いを改めさせた。それまで反抗する対象でしかなかった家族は、この世のなかにただひとり孤児として残されたときに、そばに寄り添ってくれたひとびとだった。けれど真木も八枝も、きっと伯父も伯母も、いまの灯が家族と呼ぶひとたちはみな、灯の作品を受け入れてはくれない。家族に拒まれることは、いまよりもう一歩、灯を橋のない川の淵に追いやることだった。
沈黙に耐えかねて、目をそらすように灯がちかくの棚を見あげると、竹かごの上に淡い青の波がつらなる刺し子の白い布が掛かっているのがみえた。よく見ると刺し子の布はいろんなところにある。すこし拙いけれど、一針一針縫うのはどれだけ時間のかかったであろう、丁寧なしごとだ、と灯は感心した。
「あれは八枝が?」
「ええ、いつかきものにも刺してみたいと思って始めたの。なにか手を使ってると無心になれるでしょ、礼拝のライブストリーミングなんか聴きながらするのにちょうどいいの」
割烹着のすそで濡れた手を拭きながら、カウンターに集うふたりに加わりに来た八枝が答える。
灯は突然、羨ましいという思いに駆られた。それがどういうことなのか説明は難しい。写真で表現をする自分と、刺し子をする従姉妹とに優劣を付けようとは思わなかった。けれどもきっと、刺し子を刺すのはもっとずっと安全で、八枝はこんな自らの内臓をはだかにして晒さねばならぬ気持ちにはならぬことだろう。
わたしもおとなしく刺し子でも刺していたい人生だった、灯はこころから血の滴りながれるように思った。現実逃避なのはわかっている。灯のなかには、何かを作りたい、言葉にならぬものを形に捉えたいという欲があって、それからどうしても逃れられない。けれど表現することは、皮膚のない肉をそのまま風雨にさらすように、ときとして痛みを伴った。
「わたしはなんだかどんどんこの古い家に染まっていってしまうのよねえ」
きもので暮らし、古文書を解読し、趣味は刺し子を刺すことで、東京時代の面影がまるでなくなってきた八枝が、灯の思いなぞ知らず、のほほんと言った。
「いまに台所のコンロを竈に変えてくれと言い出すかもね。まあ、それもこれも子どもがいないからだろうけど」
そう言う真木の目がかすかに翳ったのを、灯はそっとなにも触れないでおいた。
「灯ちゃん、昼間に言っていた話っていうのは?」
八枝が憚るようにしてそっと聞く。
「まだ答えてはいないの。そういう話があるだけ」
八枝は夫に、灯ちゃんが結婚するかもしれないんですってと説明する。八枝とは違い、真木ははじめから懸念しかないような表情をした。
「同業者で、やはり写真家なの。写真を始めたころからの友達なんだけど、このあいだプロポーズされました」
「へえ」
「灯ちゃん、さっき言ってたのは」
「そう、彼はバツイチで、三歳の女の子を育てていて、宗教はなにかしら、ムスリムではないと思うわ。別になにも信じてないんじゃない? クリスチャンでは決してない」
いけしゃあしゃあと灯が言う。真木も呆気にとられた顔だった。
「お義父さんはなんて?」
すこし息をついて、迎え撃つ態勢を整えた真木は、まず灯の伯父である舅を出してきた。
「伯父さんにはまだ何も言ってません」
「そのひとの前の奥さんはご存命ですか」
「生きてると思いますよ」
「じゃあ聖書がなんと言っているか、覚えていますか」
「すべて自分の妻を離縁して他の女を娶るものは姦淫を行うものであり、また夫から離縁された女を娶るものも姦淫を行うものである、でしょう?」
真木は灯の暗唱能力に舌をまいたらしいが、子どものころから見慣れている八枝に別段と驚いた様子はない。ふたりの祖父は昔、お小遣いを餌にして孫娘たちに聖句を覚えさせようとした。何不自由ない八枝はあまり熱心に覚えなかったが、元から記憶力も良く、お金も欲しかった灯は、聖句を忘れたくても忘れられないようになってしまった。だけどこんな聖句、祖父に教え込まれた筈はない。ほんとうはこの間自分で調べて読んだのである。
「信じているひとたちはそれに従えば良いけれど、信じていないわたしは縛られる理由がないじゃありませんか」
険のある灯の言葉にたじろいで、八枝が湯呑み茶碗に顔をうずめる。
「ほんとうに心の底から信じていないのか怪しいと思うけれど。でもそれを置いても、わざわざそんないかにも苦労しそうなひとを選ばなくても」
そう言う真木に、灯は無言で八枝を一瞥した。一本取られて、真木は苦笑いした。
「たしかにあなた方には、自ら苦労に身を投じたがる性質があるようだ」
「そこまでしてそのひとと結婚する理由はあるの?」
夫が言い負かされてしまったので、今度は八枝がまじめな顔つきで質問した。
「なんて答えて欲しいの? 愛してるとか? いたたまれないくらい夢中だとか?」
灯はおどけたように言った。恋愛経験に関して、既婚者であろうが八枝はお話しにならない。いまさら何をお嬢ちゃんに説教されないといけないのか。
「神さまにとって結婚は、取り消せすことのできない、戻ることのできない一線だと思うの。一度しか与えられていないチャンスを使おうと思うだけの動機があるの?」
「わたしは母の娘ですもの、チャンスが一度だけなんていう掟に縛られる理由はないわ」
「でも叔母さんは幸せじゃなかったでしょ。神さまに逆らったことで、罪の意識に苛まれていたふうに見えたわ」
失敗に終わった亡き母の二度の結婚について触れられるのは、快いことではなかった。
「結婚は甘くないわ。それが神さまの御心だとわかって結婚したって、大変なものは大変なんだもの。反抗心でするのはとっても愚かだと思うわ」
「反抗したいからするなんて誰が言ったの。八枝は教会育ちのお嬢ちゃんとして生きてきて、外の世界も男もなにも知らず、そのまま奥さんになっただけでしょ。八枝になにがわかるっていうの」
白熱していきそうな姉妹喧嘩に、真木がかすかに眉をひそめる。
「灯ちゃんが反抗しているのは、神さまよ。神さまに逆らうために自分を貶めようとしてるのよ」
「八枝、それが事実だとしても、喧嘩を買うのは生産的なことだろうか?」
真木に窘められて、八枝は口唇を噛んだ。
「わたしは八枝みたいなロマンチストじゃありませんから、彼が初恋の相手だとは言いませんけれどね、でもとても才能のあるひとなの。よく見える目をもっているひとだわ。親友と結婚するのだって悪くない選択肢だと思うけど」
「ぼくだってさすがに八枝の初恋の相手ではないでしょうよ」
真木がなんだかずれた突っ込みを入れた。
「人間の愛なんて簡単に擦りきれてしまうものだとわたしは思うの。食器の片付け方だの口の聞き方だの、そんな程度のことで、恋愛なんていうのは、磨り減って失くなってしまうものなんじゃないかしら。もちろんわたしはお二人ほど恋愛経験がありませんけれど」
しれっと夫まで向こう側にまとめあげて、八枝が言う。とんだとばっちりだ、と真木が抗議する。
「結局わたしは、神なしにひとがどうやって結婚生活を維持できるのかがわからないの。年は離れていても、和泉さんはわたしにとって結婚相手としてこれ以上ないひとですわ。でもそれは教養があるからとか、財産があるからとかじゃなくて、わたしたちの間に、そしてお互いの内側に、しっかりとイエスキリストがいるからなの。まあ、こんな質素な暮らしをしているから、和泉さんにお金があるのかないのかわたしにはわからないのですけどね」
「姑息な嫌がらせは止めたまえ」
下の名前を呼ばれるのを過剰なまでに嫌う真木が言う。
「それにどうしてまず先に思いつくのが財産と教養なんだ......」
「さあ、なんででしょう。でもあなたから神様を取ったらそれ以外に何が残るっていうんです?」
「それは誉められているのかね、貶されているのかね」
従姉妹同士の喧嘩がいつのまにか夫婦喧嘩にすり替えられていて、灯はなんだか肩透かしをくらった思いである。
「この世界にどれだけ夫婦がいると思います? 神なしにはやっていけないなんていうのは、八枝がそれ以外になにも知らないからでしょ。おふたりは神なしに何も出来ないのか知りませんけど、わたしは充分満足にやっていけてるわ。そちら側にいた頃より幸せなくらいよ」
席を立とうと灯が椅子を引くと、ギッと大げさな音がした。逃げる灯のあとを追うように、八枝がことばを投げつけた。
「それは灯ちゃんがこちら側にいた時に、頭でしか神を知らなかったからだわ」
『こちら側』に未練などなかった。しずかに廊下に通じる引き戸を開けると、灯は獅子の穴の奥深く、暗く長い廊下を客間へと歩いていった。十年前なら音を立てて戸を閉めていたかもしれない。もうそこまで幼くはなかったけれど、これ以上ここにはいられないと強く思った。朝一番のあずさで帰ろう、日曜礼拝なんかが始まるまえに。
灯はその通りにした。八枝はうろたえたけれど、真木は止めなかった、
「おばあさまには、ぼくから適当に繕っておきましょう」
パトロンに挨拶もせずに帰ってしまうことへ、さすがに気まずさを覚えたが、ふと灯の脳裡におばあさまのほくそ笑む姿が浮かんできた。はじめから踊らされていたのだ。わたしをこんな所に送り込むなんて。もういっそ個展さえ投げ出してしまいたい思いにかられながら、灯は屋敷を後にした。
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