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お寺の国のクリスチャン


 自己紹介します、
わたしは仏壇のない家に生まれた、
親の代からのクリスチャンです。
 


 そういったことは、各々の信仰とはなんら関係ないのも知っている。でも、育った環境として。

 わたしの母は、ふつうの日本の家庭に生まれて、カトリックの大学で洗礼を受けた一代目。

 父方は、わたしの曾祖父の伯父が、明治初期におきた横浜バンドというリバイバルで救われ、会津の白虎隊から明治のプロテスタント運動の一員になったひとで、だから明治時代からクリスチャンの一族である。

 わたしは少女時代、毎年夏休みになるたびに、アメリカ南部にある教会に送られて、そこでホームステイをさせてもらいつ過ごしていた、そんな育ち方。

 はじめて仏教と出合ったのは、母方の祖母が亡くなった十二のとき。何百人もお焼香に来る、田舎のお葬式。まるで異世界に留学したみたいな、異文化体験だった。

 お寺の国のクリスチャンが、仏教と出くわすのは、だいたい誰かが死んだときである。仏は死はつかさどっているようだけど、仏の教えに生きている間の人生をも、つかさどらせているひとには、あまり会わないからである。

 けれども一度人が死んだとなると、仏教としきたりは、みんなに網をかけて、ひとびとを捕らえる罠になってやってくる。

 わたしはもう、お焼香をするのはやめた。ただその場に行って、深く一礼するだけにするようにした。お線香をあげるのも、しない。まだ一歳だったころのうちのにさいじに、夫の祖母が、お線香をわたして南無南無を教えようとしたときには、嫁だけれども、大声をあげて止めた。こういう人間は、立派で感心な日本人にはなれないのである。

 わたしが仏壇に手を合わせないのは、聖書に「あなたはわたしをおいて他のどんな神も持ってはいけない。偶像を造ってはならない。それにひれ伏したり仕えたりしてはならない。」と書いてあるからだ。

 無論、いろいろな捉え方があるだろう。クリスチャンでも仏壇と暮らしているひとはいるし、お供えもお焼香も、日本人としてまっとうに生きていくために、形だけ、しているひとはたくさんいるとおもう。いままでは、わたしもしていた。新約聖書にも、ある外国の王様に仕えるひとが救われて洗礼を受けたけれど、仕事でどうしてもどこかの神殿に年に一回お供して、ひれ伏さないといけないんだけれど、赦してくれますか?と使徒に聞いたひとがいて、OKと言われていた。

 だからどちらを選んだっていい。わたしたちは、葬式に出るたびに、どう振る舞うべきかを真剣に考えさせられる。このあいだの夫の祖母の葬儀では、クリスチャンである義母、夫、わたしの三人がみな、お焼香もお線香もやらなかった。さいごにはお坊さんが、「ほら、お線香持ってるひとはさっさとやって!」と、お線香さえ持たない我々を半ば認めたみたいな形になっていて、なんだかユーモラスにさえ思った。けれども矢面に立つお義母さんは、ほんとうにほんとうに居づらそうだった。

 少数派の生きづらさ、という点ではいま話題のひとたちの気持ちもわかる。でも、聖書は、この生きづらさは当然のものだ、と言っている。この世に認めてもらおうとするな、と言っている。この世は、仮の宿に過ぎないのだから。「この仮の宿で、わたしはあなたの掟を歌います。」

 わたしは古いものが大好きで、中山道に残る旧本陣なんかを見ると、心の底から震えるほど嬉しくなってしまうのだけど、でもここに生まれていたら、クリスチャンとして生きられないんだろうなあ、と怖い気もする。「だれでもイエスのために家や家族、財産を捨てるものは、迫害も受けるけれど、すべて百倍になって返される。そして後の世では、永遠の命を受けることになる。」

 いつかどこかで、選ばなくてはいけなくなるのだ。キリストの方に進めば、キリストに。この世の方に進めば、この世に。ふたりの主人に同時に仕えることはできない、と聖書のことば。その外国の王様に仕えていたひとだって、ずっとその仕事をしていたのかは書いていない。

 クリスチャンという言葉は、幅が広すぎる。わたしがこの言葉をじぶんに使うとき、それは、キリストの中に生きるひと、という意味で使っている。宗教は何ですか? キリスト教です、冠婚葬祭は教会でやるんです、ということではない。宗教は何ですか? 先祖代々の浄土真宗です、というひとが、浄土真宗のなんたるかをたいしてわかっていないのと同じように。だからわたしは先祖代々のキリスト教徒かもしれないけど、わたしとキリストの関係は、個人的で、わたしたちだけのものだ。

 わたしはしがらみのない人間で、そして信仰に忠実に生きられる環境に恵まれている。あの旧本陣の跡取りが、わたしとおなじ信仰を得たらどうなっちゃうのかしら。たぶん大した家に生まれなかった、というのも、神さまの恵みのひとつなんだとおもう。何百年も続く家、りっぱな長屋門、白漆喰の蔵、襖を開け放つとどこまでも続く畳の間、瓦葺きの塀にかこまれたお屋敷、みたいなのは、こころのなかの日本人が疼いてくるけれど、たぶんクリスチャン向きではないんだとおもう。

 お寺の国のクリスチャン、根なし草みたいな存在。だけれどそれでいいんだと、神さまは言っている。わたしはここのひとじゃないんだって。





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