嵐の前の凪
「ねえ、聞いて?」
放課後の教室。夕陽が机に斜めの影を作る中、千春が僕に話しかけてくる。
「恋はさ、恋煩いとか恋多き女とかあるけど、愛ってないよね?」
そう言えば、そうだな、と僕は思った。少し考えて、口に出す。
「恋はさ、なんか嵐みたいだからじゃない?
愛の方は、安定して安心できる凪みたいな…」
窓の外を見れば、風が校庭の木々をそよがせ、遠くで部活帰りの靴音がリズムを刻む。教室の中は少し埃っぽくて、その匂いもどこか落ち着く。
「へぇー、なるほどね」
千春は机に肘をつき、顎に手をのせてじっと僕を見つめる。
夕陽に照らされて、瞳が少し光っている。思わず視線を逸らす。
「で、どういうこと?」と千春が小首をかしげる。
「いや、別に…」と僕は言葉を濁すが、胸の奥は少しざわつく。
こういう話をさらりとできる間柄。凪のような心地よさはあるけれど、まだ愛じゃない。
でも、僕の胸には小さな予感がある。
恋の予感――これから心が、少しずつ揺れていく気がした。
風がカーテンを揺らすたび、千春の髪もそよぎ、胸の奥のざわめきも、そっと波立つ。
教室の戸口で靴を履きながら、千春がふと僕を見た。
「ね、帰り、一緒に歩かない?」
僕は一瞬驚いたけど、すぐに頷く。
「うん、いいよ」
校庭を抜ける風が、まだ少し熱を残した夕陽を運ぶ。
木々の間を通るたび、髪が顔にかかる。千春がそっと直す仕草に、胸がざわつく。
「そういえば、放課後って意外と静かだね」
千春が笑う。
「うん、教室より、外のほうが落ち着くかも」
僕は言葉を返しながら、心の中では小さな嵐が巻き起こっていた。
一緒に歩く帰り道。靴音が並んで響く。
ふと、千春が横目で僕を見て、笑う。
まだ恋じゃない。でも、凪の中に潜む小さな波が、確かに僕の胸を揺らす。
この気持ちは、これから少しずつ嵐になるのかもしれない――
それでも今は、夕陽と風と、千春と歩く帰り道の穏やかさに、ただ身を任せていた。
