精霊馬
※軽度の残酷描写があります。ご注意ください。
精霊馬と精霊牛というものがある。
きゅうりやナスに割り箸を刺して馬と牛に見立てたもので、お盆にご先祖様が家に来るための乗り物として飾られる。
この飾りの意味は地域によって異なるそうだが、大抵は「来るときは馬で速く来てもらい、帰りは牛でゆっくり帰ってもらう」もしくは「来るときは牛でゆっくりと丁寧に迎え、帰りは馬で帰って早く休んでもらう」という考え方らしい。どちらにせよ、きゅうりとナスはセットで飾るのが普通だ。
しかし我が家には、きゅうりで作った精霊馬しか置いていない。
「へぇ、未来(みく)さんの家は精霊馬だけ飾るんだ。珍しいですね」
食事をしようと招いた交際中の恋人ーー安西貴史(あんざいたかし)は、窓辺にちょこんと飾られたきゅうりの馬を見ながら珍しそうに言った。
「未来さんの地元だと、みんなこうしてるんですか?」
「そういうわけじゃないんですけど……」
リビングのドアを開けていると、隣の部屋の中がよく見える。そこには仏壇があり、男性のーー私の元夫の遺影が飾られていた。
「聡(さとし)には……夫には速く帰ってきて欲しいけど、速く向こうに戻って休んでも欲しいから。だから馬だけ飾ってるんです」
「そういうことでしたか。きっといい旦那さんだったんですね」
「……えぇ」
嘘だ。何もかも。
聡はいい夫ではなかったし、帰ってきて欲しくもない。ゆっくりと丁寧に迎えるだなんて、もってのほかだ。
本当は精霊馬すら飾りたくない。けれど“夫を亡くした妻”として何もしないのは不自然なので、仕方なくそうしているにすぎなかった。
◇◇◇
二年前のお盆。
私は夫の東野聡を“殺した”。
殺した、と言っても直接何かをしたわけではない。
私がしたのは、普段あまり飲まない聡に酒を勧めて注ぐこと。それから家の掃除と、電灯を少しいじっただけ。その一見関係のない別々の歯車が噛み合って、たまたま彼を死に導いただけだ。
正直なところ、本当に死ぬとは思ってなかった。ただ、あんな奴死んだらいいのにとか、死んでせいせいしたという気持ちが全くなかったかと言えば嘘になる。
きっかけは聡の浮気だった。
顔がよく、口も上手かった聡は、学生時代から女子によくモテた。それは社会人になってからも同じだったようで、私と結婚後も部下と浮気をしていたことがわかった。それだけならまだしも、生活費の一部を浮気相手と遊ぶために使っていたのだ。
「うちの会社も最近景気悪くなってるみたいで、人件費削られてるんだ……ごめんね」と、しゅんと眉を下げて言ってきた聡。それを疑いもせずに信じて、こんな男のために生活を少しでもよくしようと努力していた自分が、心底馬鹿で愚かに思えて。
少し痛い目を見ればいいと思った。
二年前のあの日。
私は聡が外出しているうちに階段周りの床を綺麗に掃除して、ワックスをかけておいた。
そして夜、夕食の席。軟派な容姿とは裏腹に酒があまり飲めない聡を、たまには一緒に飲もうと誘った。
買ってきたワインの度数は十三パーセント。案の定、聡の顔はグラスの半分も飲まないうちに火照りはじめていた。けれど甘くて口当たりのいい酒はソフトドリンクのように飲めてしまって、酔いを感じさせない。私は食事を進めながら、さりげなく聡のグラスにおかわりを注ぎ続け、最終的にボトルの四分の三を飲ませることに成功した。
食事もそこそこに、紅潮した顔を腕に埋めてテーブルに突っ伏す聡に私は声をかけた。「こんなところで寝たら風邪ひくよ」「寝るならベッドで寝なよ」と。そしておぼつかない足元の聡に肩を貸して、二階の寝室へ連れていった。
寝室に着くなり聡は、糸の切れたマリオネットのようにベッドの上にくしゃりと崩れ落ちた。まもなく半開きの口から、すうすうと寝息が漏れる。
それを確認した私は、階段の照明から電球を抜き取る。これが最後の歯車だった。
階下に戻って食事の片付けをした私は、シャワーを浴び、いつもと同じ時間に寝室に入った。聡はまだ呑気ないびきをかいていた。
酒には利尿作用がある。あれだけ飲んだ聡は、必ずトイレに行きたくなるはずだ。
しかし我が家のトイレは一階にしかない。酔いの残る足取りで階段に向かう聡。しかし照明はつかない。そして足元には、ワックスをかけたばかりのツルツルの床。
夜半過ぎ。大きな物音が、浅い微睡みから私を引き上げた。薄暗い階段を手すりをしっかりと掴んで、慎重に一段ずつ降りて。
その一番下に広がっていたのはぐったりと横たわる聡と、暗闇の中でも浮かび上がる赤黒いシミ。そしてむっと鼻をつく鉄の臭いーー。
◇◇◇
「未来さん?」
名前を呼ばれて視線を上げると、死んだはずの聡がこちらを覗き込んでいて、反射的にビクリと身体が跳ねる。
ぎゅっと目を瞑ると、更に声が降ってくる。
「大丈夫ですか? 何だかぼーっとしてたみたいだったので」
聡とは全然違う声。
目を開けると、貴史さんが心配そうに眉を下げていた。
「ごめんなさい、私……」
あれから二年も経ったというのに、いつまであの男の幻影に取り憑かれているんだろう。
浮気をした仕返しをしてやりたかった。少しくらい痛い目を見ればいいと思った。ほんの少しだけ保険金のことも頭を過った。
確かに未必の故意ではあったが、聡が死なない可能性だって十分にあった。あれは偶然の歯車が噛み合った結果であって、だからこそ事故死が認められた。たまたま電灯が切れていた暗い階段で、酒に酔った夫が足を滑らせて転落した不幸な事故として。
「やっぱり未来さん、休んでたほうがいいですよ。キッチンをお借りしていいなら、食事は俺が作りますから」
「そんな、呼んだのは私なのに悪いですよ!」
「気にしないでください。それに俺、こう見えて一応料理もできるんですよ」
貴史さんがやわらかく微笑む。
料理をするなんて、生前の夫からは一度も聞いたことのない台詞だ。
やっぱり彼は聡とは大違いだ。なんでこんなに優しい人を、あんな男と見間違えたんだろう。
幾許かの申し訳なさを感じながら、私は彼が引いてくれた椅子に腰かけた。
冷蔵庫の食材たちは、彼の手によって立派なディナーに姿を変えた。ビーフステーキ、つけ合わせのマッシュポテト、グラッセ、ショートパスタ入りの野菜スープ、ゆで卵が添えられたサラダ。
「お土産にワインを持ってきたので、それに合うものにしたかったので洋食にしました」
そう言いながら、貴史さんが冷蔵庫から冷やしたボトルを出す。ボトルの中身は深紅。それを見て、ほんの少し心臓がざわりとする。
あの日夫に飲ませたのも、赤ワインだった。
「乾杯」
グラスを軽くぶつけると、チンと澄んだ音が鳴る。すんと鼻から息を吸い込むと、ブドウの豊かな香り。こくりと一口含むと、深い味わいが口いっぱいに広がった。
ふと、彼がこちらをじっと見つめているのに気がついた。
「あ、すみません。ワインが未来さんの口に合うかどうか気になってしまって」
「すごくおいしいです。こんなにおいしいワイン飲んだの初めてかも」
もう一度グラスを傾ける。本当においしい。
「……そうですか。それはよかった」
貴史さんは薄く笑って、自分のグラスに口をつけた。
「貴史さんは本当に料理がお上手なんですね。どれもすごくおいしいです」
「未来さんがいい食材を用意してくれてたからですよ」
貴史さんが控えめな笑みを浮かべる。
聡は褒めると「当然だろ」と胸を張って笑うタイプだった。本当に貴史さんは聡とは何もかもが反対で、素敵な男性だ。
「それにワインともよく合うし。よかったんですか、こんないいワイン開けちゃって」
「もちろんです。未来さんと飲みたくて持ってきたんですから」
また昔の記憶がじくりと疼く。
あの日、自分も同じことを言った。「聡と飲みたくてこのワイン買ってきたんだよ」と。
「さ、ぜひもっと飲んでください」
貴史さんが両手でボトルを持って、にこりと笑う。グラスにワインを注いでもらったところで、私は手を差し出す。
「今度は私が」
「あぁ、ありがとうございます」
ボトルを傾けていると、彼が口を開く。
「旦那さんにも、こうやって酒を注いであげてたんですか?」
「いえ、夫は……」
あぁ、ダメだ違う。
もう酒が回ってきたのだろうか。嘘をつかなければいけないのに、つい一瞬だけ真実を漏らしてしまう。
「……えぇ、まぁ」
「旦那さんはお酒が好きだったんですか?」
「そうですね。仕事でストレスが溜まったときは、かなり飲んでました」
「前に、旦那さんはお酒を飲みすぎたことが原因で、階段から転落して亡くなったと言ってましたよね?」
「そうですけど……」
確かに夫が亡くなったと話したことはある。けれど、詳しい状況まで言っていただろうか? ……ダメだ、思い出せない。
「じゃあ旦那さんが亡くなった日も、あなたがお酒を注いでたんですか?」
「そうです。この家に私以外に注ぐ人なんていませんから」
「旦那さんに頼まれてそうしたんですか? 旦那さんが飲みたいと、そう言ったんですか?」
彼らしくない妙にしつこい質問攻めに、思わず声が荒立ってしまう。
「そうです! なんでさっきから死んだ夫のことばっかり聞くんですか!?」
「……それが聞きたかったんです。あなたが彼に酒を飲ませた、という言質が欲しかったんです」
貴史さんはーー彼は今までのにこやかな笑みを吹き消し、静かに言った。
「俺はこのために、あなたに近づいたんです。あなたが兄さんを……兄を殺した犯人かどうか確かめるために」
「殺した」という言葉に、握り潰されたように心臓がぎゅっと縮まる。
「夫は不幸な事故で亡くなったのよ!? 私が殺しただなんて、そんな……。しかも聡に弟がいたなんて、聞いたこともないわ」
疑いの目を向けても、彼は全く動じない。むしろ堂々と胸を張っているようにすら見える。
「そもそも夫の名字は東野よ。でも貴史さんの名字は安西でしょ? 本当に兄弟なら、どうして名字が違うんですか!?」
「俺たちはね、異母兄弟なんですよ。俺は、東野聡の弟なんです」
「異母兄弟……」
彼の顔をじっと見つめる。そう言われてから見ると、確かに目元のあたりが似ているようにも感じる。
「でも私、結婚式で貴史さんを見てません。もし弟なら親族の席にいたはずなのに」
「それは俺が呼ばないように言ったからです。兄は呼ぼうとしてくれたけど、俺が止めたんです。結婚相手の親に愛人と子供がいるとわかったら、あなたやその親族がよく思わないだろうから。だから兄に恋人がいるとわかった時から、俺のことは黙っているように言いました」
「なんでそこまで……」
「俺は子供の頃、父親がいないことでいじめられていたことがありました。兄とは離れた場所に住んでましたが、兄さんは毎日メールや電話をくれて俺を支えてくれました。そんな兄さんに幸せになって欲しかったんです」
「でも……」と彼はこちらに視線を向ける。それが非難の色を帯びているように思えて、目を逸らしてしまう。
「事故の話を聞いてからずっと疑問でした。酒に弱い兄が、階段を踏み外して転落するほど泥酔するだろうか、と。それを確かめたくて、未来さんに近づきました」
ということは、彼は私を殺しに来たのか。兄を殺された復讐に。
思わず数歩下がって距離を取る。しかし復讐に来たにしては、彼は凪ぎすぎていた。激昂することもなく、静かに滔々と語るだけだ。
「わ、私は何もしてないし、何の証拠もないのに犯人扱いなんて心外だわ!」
「確かに決定的なものは何もありません。でも状況証拠ならいくつか」
彼は私が持っているワインボトルを指す。
「今はちょうど、兄が亡くなったのと同じくらいの時期です。もし兄があなたにとって最愛の夫だったのなら、その時期に因縁のあるワインを出されたら、何かしらの反応があると思いました。飲むのを躊躇うとか、拒絶するとか。でもあなたは何の躊躇いもなく飲み、おかわりも拒まなかった。そこで俺の疑いは深まった」
まさかそこから計算されて仕組まれていたとは。
彼を自宅に呼んだ時点で、私はもう蜘蛛の巣の中だったのだ。
「そしてさっき、あなたは兄に酒を飲ませたことを認めました。酒に弱い兄が、自分からあれほどの量を飲みたいと言ったとは考えられない。となれば、あなたが強引に飲ませたと考えるのが自然だ」
彼はジャケットのポケットからスマホを出して見せる。
「今までの会話は録音しました。これを警察に持っていけば、再捜査してくれるかもしれない」
警察という単語に背筋の毛が逆立った。血が瞬時に沸騰したかのように、体がカッと熱くなる。
何かを思うとか、感情が込み上げてくるとか、そんなことよりも先に体が動いていた。
手にしたワインボトルを、彼の頭に振り下ろす。
ごつん、という衝撃が腕を這い上がる。これまで経験したことのない鈍く重い感触。
これが人を殴るということなのか。
「未来さん!」
その叫びをかき消すように、ボトルを叩きつける。
一回、二回、三回。
骨を殴る鈍い振動の後、耳障りな音を立ててボトルが割れる。残っていたワインが血飛沫のように飛び散り、彼の顔を、私の腕を染める。芳醇なブドウの香りのはずなのに、何故か鉄臭く感じた。
「未来さん、もうやめてください! 俺は個人的な復讐をしに来たわけじゃない! ただ、貴方に正当な裁きを受けて欲しいだけなんです!」
「なんで!? なんで私がそんなの受けなきゃいけないの!? 先に浮気したのは聡のほうなのに! なんで私が!!」
この人を何とかしなきゃいけない。彼がこの家の外に出てしまえば、私は破滅だ。
何とか、何とかしなければ。
部屋を見回す。彼を止められそうなものを探す。
視界の端ーーテーブルの上で光るそれを認識して、咄嗟に手に取って。こちらに詰め寄ってくる彼に向けて、突き出した。
無意識に目を瞑っていた。しかしそれが触覚をよりいっそう鋭くして。
突き出したステーキナイフの先が、ずぷりと肉に沈む。ぐにょりとした気味の悪い柔らかさに、思わず手を離してしまう。
「っ、……」
肺を押し潰されたような呻きが彼の口から漏れた。助けを求めるように、右手が宙を頼りなく掴む。
「みく、さ……」
恐ろしくなって、足が二歩三歩と後ろへ逃げる。それを追うように彼が一歩踏み出し、しかし力尽き。ばったりと床に倒れこんだ。
胸に深々と刺さったナイフは、もはや柄の部分しか見えなくなっていた。そこから染み出した血が彼のシャツをじわじわと染める。
閉じることなく見開かれた彼の目は、もう何の色も光も感情も映していなかった。
何とかしなければという緊張の糸が切れた途端、疲労感がどっと押し寄せた。
立っていられないほど体が重くて床にへたり込むと、ふと自分の両手が目に入る。そこにはべったりとした赤が纏わりついていた。
「はは、は…………」
乾いた笑いがこぼれた。
やってしまった。
前は直接手を下さなかったから逃れられた。でも目の前のこの惨状を引き起こしたのは、紛れもなく自分のこの手だ。
今度はもう、逃げられない。
ーー貴方に正当な裁きを受けて欲しいだけなんです。
彼は自分の命と引き換えに、その望みを叶えたのだ。
もう何も考えたくなかった。全てを投げ出したかった。このまま眠って、いっそ目が覚めなければいいとすら思った。そうしたらこの現実から逃げ出せるのに。
重くぼんやりとする頭を床に預けると、ふと窓辺の出窓が目に入った。
頭を紅く染めた精霊馬が、そこからじっとこちらを見下ろしていた。
