『胡桃の箱』第30話 桜の見えるバルコニー
それから、二週間経った。
各地で桜が咲き始めていたが、コロナ騒ぎで自粛生活が強いられ、息苦しい日々だった。
そんな日曜日の朝、突然白石はるみから電話が来た。
「お休みの日に電話して、ごめんなさいね。寝てたかな?」
「いえ、大丈夫です」
彼女が実の母親だということを知ってしまったが、特に感情の変化は無かった。
「実は、うちの社長がね、『田園調布の家の桜が見頃だから、観に来ないか』って言うんだけど、折角だから春人君も来ないかなって思って」
「今日ですか」
「急だけど、どうかな?」
「ああ、行けます」
「ほんと?良かったあ。社長が言うにはね、今年はコロナ騒ぎで表立ってお花見ができないけど、あの家の桜が余りにも見事なので観てやらないと可愛そうだって」
「確かに、あそこは桜の木がいっぱいありましたね」
「そうなの?」
約一年ぶりに、田園調布の家を訪れた。門扉は開放されており、玄関に続く石段を上った。前回、源ちゃんと来た時は葉桜だったが、今回は満開の桜が風に揺れていた。
インターホンを鳴らすと、返事があった。
「どうぞ、お入り下さーい」
「こんにちはー」
中に入ると、着物を着たショートヘアの女性が出迎えてくれる。
「ようこそ、いらっしゃい」
その隣には、はるみさんも居た。
「いらっしゃーい。って私の家ではないけれど。彼が春人君で、こちらが社長の奥様よ」
「始めまして。古城春人です」
僕は、着物の女性に挨拶をした。
「こんな素敵な御家を譲って頂いて、主人も私も大喜びしているんですよ。おじい様やお母様に、くれぐれもよろしくお伝え下さいね」
「ああ、はい」
「どうぞ、二階に主人が居りますので、上がって下さいな」
「はい」
はるみさんと一緒に二階に上がると、バーカウンターで、業界人らしき三人の男性が飲みながら談笑していた。
そのうちの一人の男性が、我々に気づいて、近づいて来た。
「やあ、君が春人君か。噂はいつも聞いてるよ」
「こんにちは、今日はどうもありがとうございます」
「いやあ、ここの桜は凄いね。コロナじゃなかったら、もっと人呼んで自慢するんだけどね。今日は、内輪のささやかな集まりだけど愉しんでってよ」
「社長、呼んでくれてありがとう。今年は、お花見できないと思ってたから、嬉しいわ」
「うちの看板女優に声かけないわけには、いかないじゃない。あとで拗ねられても困るしね」
「えっ、私って、そんな面倒な女って思われてるの?」
「いやいや、それはないけどさ。ほらそこ、ちょっとばかり軽食用意してるから、自由にやってよ」
そう言いながら男性は冷蔵庫を指差し、カウンターに戻った。
「ありがとうございます」
「社長、ありがとね」
はるみさんは、ガラス張りの冷蔵庫を覗き込んだ。一段目には、色とりどりのゼリーやムースが並んでいた。
「わあ、可愛い」
二段目には一人分ずつ箱に入ったサンドイッチが入っており、その下の二段には飲み物がぎっしり詰まっていた。
「春人君、何飲む?」
「じゃあ、ビールで」
「オッケー」
はるみさんは、二人分のサンドイッチとビールを僕に手渡した。
「デザートは、どれがいい?」
「えっとー、抹茶プリンで」
「はーい。私はコーヒーゼリーと苺ムース、両方食べよっと」
そう言いながら、デザートとスプーンとペーパーナプキンを、お盆に載せた。
「こっちに、ミネストローネもあるよ」
社長は、保温のできるスープジャーを教えた。
「ありがとう。後で、頂くね」
僕らは、バルコニーに設置されたガーデンテーブルに食べ物を運んだ。そこからの景色は、圧巻だった。
「うわあ、見事ねえ。こんなに凄いとは思わなかった」
温かい日差しが降り注ぐ、絶好の花見日よりだった。手を伸ばすと届きそうなほど近くに、桜の枝が伸びている。丁度目の高さの位置に桜が咲いているので、首が疲れないのも良かった。
「ねえ、一緒に撮ろう」
僕らは、桜をバックにツーショット写真を撮った。それは、実の母親と撮る始めての写真だった。そしてお互いを撮り合った。
ひとしきり写真を撮り終えると、バルコニーの手すりに持たれながら、缶ビールを開けた。
「かんぱーい」
はるみさんは、そよ風に吹かれながら気持ちよさそうにビールを飲んでいる。この人が、僕の母親なのか。
僕は桜を眺めながら、切り出した。
「ねえ、この間の冬人爺さんの話、あの話は、やっぱり本当だったんでしょう」
「冬人さんの話?」
「僕がミハイルの子孫だって話」
「ああ、あれね。ごめんね。この間、思わず嘘ついちゃった」
「やっぱりね」
「実はね、春人君には、話さなきゃいけないことがあるんだけど」
「それなら、もう母さんに聞いたよ。俺の本当の父親と母親のことでしょ」
はるみさんは驚いた顔をして、僕を見た。そして大きなため息をつくと、口を開いた。
「そっか、もう聞いちゃったかぁ」
「うん、だいたい」
「あれから、ずっと考えててね、今日は本当のことを話そうって思っていたの。それで呼んだのよ」
「そうなんだ」
「夏子さんから聞いたでしょ。私がとんでもない額の負債を抱えていたこと」
「なんとなくね」
「それが二十一年かかって、やっと返済が済んだの。それでこの前、秋人さんのお墓に報告しに行ったのよ」
「そうだったのか。だから泣いてたんだね」
「見てたの?」
「チラッとね。で、俺がその後すんげえ失礼な態度とって」
「あはは、全然気にしてないから大丈夫よ」
彼女はケラケラと笑った。
「春人君には、返済が済んだら本当のことを話そうって決めてたんだけど、どうやって話そうか迷っててね」
「そしたら、夏子ママがフライングしたんだね」
「でも良かった。上手く話す自信がなかったから、夏子さんが話してくれて」
「皆で、俺を騙してたんでしょ」
「ごめんなさい、悪い母親よね」
「悪くないよ。悪くはない」
僕は、言葉を捜した。
「悪いっていうより、何ていうか、すごく強くて、でも実は優しい人なんだと思ったよ」
そう言いながら、自分の言葉に恥ずかしくなった。
「優しい?そんなこと思ってるの?本当は怒ってるんじゃないの?」
「なんで?怒る気持ちなんて、一ミリもないよ。だって皆が俺を騙したのって、俺の幸せを願ったからなんでしょ」
「そうなんだけど。本当にごめんなさい」
「別に誤らなくていいよ」
「ありがとう。春人君は、とっても優しい子なんだね」
「それは、親譲りなのかも」
僕は、歯の浮くような台詞を吐いてしまった。
「やだな、そんなこと言ったら、涙が出てきちゃうじゃない。もう、こんな所で泣きたくないのに」
そう言うと、はるみさんは顔を空に向けて肩を震わせて泣きじゃくった。僕は、ただ呆然と見つめるしかなかった。この母親は、ずいぶんと子供っぽい泣き方をする。
「ごめん、ティッシュあるかな。メイクがひどいことなっちゃって」
僕は、ペーパーナプキンを手渡した。彼女はナプキンの折り山で涙をそっと押さえ、バッグからコンパクトを出して目元を整えた。
「こんなに泣くとはね。呆れてるでしょ」
「いや、まあね」
笑ったり泣いたり、ずいぶんと感情の起伏が激しい人だ。
「ところでさ、僕はミハイルさんの何になるんだろう」
「春人君はね、ミハイルのひ孫になるの」
「そっかあ、そりゃ冬人爺ちゃんが、驚くはずだね。シベリアで自分を助けてくれた人の子孫と、親戚になるなんてさ」
「ほんと、不思議な縁よね。私も冬人さんに出会わなければ、ミハイルさんのことがわからなかったし」
「オルゴールが回り回って来たのも、不思議だね」
「そう、オルゴールに隠されてた写真のお陰で、うちのパパが自分の父親の顔を知ることができたの」
「へえ、そうなんだ。で、そのパパって人は僕のお爺さんになるのかな?」
「そうよ、礼文島に居る、もう一人のおじいちゃんよ。いつか、会ってあげてね」
「礼文島か。俺のルーツを辿る旅をしようかな」
「そうね」
桜を愛でながら飲むビールは、格別だった。
「ねえ」
僕は、気になっていたことを聞いた。
「なあに?」
「オルゴールの中には、ミハイルさんの写真以外にも入ってたんでしょう?」
「どうして?」
はるみさんが真顔になった。
「秋人パパが、オルゴールを棺に入れて欲しいって言った理由は、何だったのかなって思ってて」
「さあ、どうしてかな?」
「ずっと、思ってたんだけど」
「何を?」
僕は、以前は認めたくなかったけど、今では確かめたくなっていることを聞いた。
「秋人パパは、あのオルゴールの中に、とても大切な思い出を隠していたんじゃないかな?」
はるみさんは、黙って遠くを見つめた。そして振り向き、僕の顔を見た。しばらく戸惑った顔をして何か言おうとしていたが、途中で気が変わったのか諦めたように微笑んだ。
僕も、つられて笑った。
彼女の笑顔には、総ての答えが含まれているように思えた。
そよ風が吹いて、桜の花びらが舞い散る。
僕は、春風を思いっきり吸い込んだ。
