三階のみっち――午前2時13分、AIだけが男を見ていた――
「三階だから、大丈夫」
あとになって思えば、未来が自分についた最初の嘘は、それだった。
未来と書いて、みらい。
二十三歳。
けれど故郷では、家族も友達もみんな彼女を「みっち」と呼んだ。
春、就職を機に田舎を出た。
埼玉県内の会社に採用され、初めて一人で暮らすことになった。
東京に近い。
電車一本で都心へ出られる。
駅から徒歩十二分。
築二十六年。
三階。
ワンルーム。
家賃五万八千円。
古いけれど、みっちには十分だった。
不動産屋の若い男は窓を開けながら言った。
「女性なら二階以上が安心ですよ。ここ三階ですから」
窓から下を見る。
駐輪場の屋根。
その向こうに細い道路。
コンビニの看板。
「三階なら、ベランダから人が入ってくることなんてないですよね」
みっちが聞くと、男は笑った。
「普通は考えませんよ」
普通は。
その言葉を、みっちは信じた。
1 鍵をかけない町から来た
みっちの実家では、玄関に鍵をかけないことがあった。
近所のおばちゃんが、
「お母さんいる?」
と言いながら勝手口を開ける。
祖父の知り合いが採れた野菜を玄関へ置いていく。
宅配便のお兄さんも顔見知りだった。
人間は、基本的には悪いことをしない。
みっちは二十三年間、そういう世界で生きてきた。
母からは何度も言われた。
「都会は怖いんだから、鍵だけはちゃんとかけなさいよ」
「東京じゃないよ。埼玉だよ」
「同じようなもんでしょう」
「全然違うって」
笑っていた。
夏になった。
初めて経験する、都市の夏だった。
夜になっても暑い。
コンクリートが昼間の熱を吐き出している。
帰宅すると、みっちはまず窓を開けた。
エアコンをつける。
シャワーを浴びる。
Tシャツと短パンに着替える。
冷蔵庫から麦茶を出す。
窓から生ぬるい風が入る。
三階だから。
大丈夫。
夏という季節は、人の警戒心まで薄着にする。
窓を開ける。
夜遅くまで出歩く。
旅行の写真をリアルタイムで投稿する。
「今から帰宅」
「今日は飲み会」
「週末は実家」
みっちもSNSに何気なく書いていた。
自分では、住所なんて公開していないつもりだった。
ある夜景写真の隅に駅前の看板が写っていることにも気づかなかった。
2 午前2時13分
八月六日。
午前二時十三分。
枕元のスマートフォンが震えた。
ブッ。
みっちは薄く目を開けた。
《人物らしき動きを検知しました》
一週間前に買った安価なスマートカメラからだった。
同僚の沙織に勧められた。
「一人暮らしなら、こういうの置いときなよ」
「泥棒なんか来ないって」
「泥棒が来てから買ってどうすんの」
セールになっていたので、半分冗談で買った。
みっちは通知を消した。
「虫でしょ……」
再び眠った。
翌朝。
ベランダの白いタオルが床に落ちていた。
風だと思った。
AIだけが記録していた。
午前二時十三分。
映像の右端。
わずか二秒。
人間の指のようなものが、ベランダの手すりに映っていた。
3 エレベーターの男
三日後。
会社の飲み会で帰宅が遅くなった。
午後十一時四十二分。
イヤホンをしたままマンションへ入った。
エレベーターに乗る。
三階を押す。
扉が閉まりかけた。
突然、
男の手が入った。
みっちは肩を震わせた。
扉が開く。
帽子。
マスク。
黒っぽいシャツ。
四十代くらい。
「すみません」
普通の声だった。
「いえ」
みっちは少し横へずれた。
扉が閉まる。
エレベーターが動く。
そこで気づいた。
男は、
何階のボタンも押していない。
三階。
チン。
扉が開く。
みっちは降りた。
後ろから、
男も降りた。
コツ。
コツ。
コツ。
みっちが歩く。
後ろから、
コツ。
コツ。
同じ速度。
自分の部屋まで八メートル。
六メートル。
四メートル。
鍵を出そうとした。
その瞬間、沙織の声が頭の中に浮かんだ。
――変な人がいたら、自分の部屋を教えちゃダメだからね。
みっちは鍵から手を離した。
自分の部屋を通り過ぎる。
非常階段へ向かった。
後ろの足音も曲がった。
コツ。
コツ。
みっちは止まった。
足音も、
止まった。
背中を汗が流れた。
振り返れなかった。
突然走った。
非常階段を駆け下りる。
二階。
一階。
サンダルが階段を叩く。
パタッ。
パタッ。
パタッ。
後ろから、
ドン。
ドン。
ドン。
別の足音。
追ってくる。
みっちはマンションを飛び出した。
コンビニへ駆け込む。
店員のいるレジまで行って、ようやく振り返った。
誰もいなかった。
心臓だけが、
まだ走っていた。
4 AIは「偶然」を知らない
翌朝。
スマートフォンに見慣れない通知が出た。
《過去7日間に類似した人物の検知があります》
みっちは眉を寄せた。
履歴を開く。
月曜日。
午前二時十三分。
ベランダ付近。
水曜日。
午前一時五十六分。
共用廊下。
金曜日。
午後十一時四十二分。
エレベーターホール。
三つの映像。
どれも不鮮明だった。
人間なら、
「よく分からない」
で終わる。
AIは違った。
似た体格。
似た服装。
時間帯。
滞在場所。
あくまで候補だった。
同一人物だと断定できるものではない。
それでも、
みっちが三回とも「偶然」で処理した出来事を、機械は一つの画面に並べた。
三枚目を見た瞬間、
みっちの指が止まった。
エレベーターの男だった。
5 歯ブラシ
その日の夜。
帰宅すると、椅子が少し斜めになっていた。
「あれ?」
朝、こんな置き方だっただろうか。
疲れているんだ。
そう思った。
冷蔵庫から麦茶を出す。
洗面所へ行く。
歯ブラシを取ろうとして、
手が止まった。
向きが逆だった。
みっちは右向きに置く。
昔からそうだ。
「……私だよね」
誰に聞いているのか分からない。
笑おうとした。
笑えなかった。
スマートフォンを開いた。
AIに入力する。
「一人暮らしです。帰宅したら物の位置が少し変わっている気がします」
回答は冷静だった。
記録する。
施錠を確認する。
異変を写真に残す。
危険を感じる場合は室内を自分で確認せず、安全な場所へ移動する。
必要なら管理会社や警察へ相談する。
みっちは部屋を撮影した。
机。
椅子。
玄関。
窓。
洗面所。
最後にクローゼット。
写真を撮った瞬間、
気づいた。
扉が、
三センチほど開いている。
みっちは動けなくなった。
朝、
閉めたはずだった。
6 62%
その夜は全部の鍵を確認した。
玄関。
窓。
補助錠はまだない。
窓のクレセント錠を何度も触った。
閉まっている。
午前二時十二分。
目が覚めた。
理由はなかった。
暗闇でスマートフォンを見る。
2:12。
あと一分。
自分が午前二時十三分を待っていることに気づいた。
2:13。
ブッ。
身体が跳ねた。
《人物を検知しました》
カメラを開く。
玄関。
誰もいない。
ベランダ。
誰もいない。
室内。
ベッドの上に自分が映っている。
「なんだ……私じゃん」
息を吐いた。
その瞬間。
画面にもう一つ、
四角い枠が現れた。
クローゼット。
《人物候補》
信頼度62%。
みっちは息を止めた。
画面を拡大する。
暗い。
何も見えない。
63%。
65%。
67%。
クローゼットの隙間。
そこだけが、
黒い。
70%。
71%。
みっちは振り返らなかった。
AIへ打ち込む。
「部屋の中に誰かいるかもしれない」
返事はすぐに出た。
《確認しに行かないでください》
その一行が、
みっちを動かした。
7 声を出すな
スマートフォンを握る。
対象へ近づかない。
退避できるなら退避。
安全な場所から通報。
みっちはベッドから足を下ろした。
裸足。
床が冷たい。
クローゼットを見ない。
玄関まで六歩。
一歩。
二歩。
三歩。
ギ……
背後で音がした。
クローゼットの蝶番。
みっちは止まらなかった。
四歩。
五歩。
六歩。
玄関の鍵。
回す。
カチャ。
その瞬間。
背後で、
裸足が床を踏んだ。
ペタ。
一歩。
ペタ。
二歩。
みっちはドアを開けた。
廊下へ飛び出した。
背後から、
ドンッ!
何かが玄関ドアにぶつかった。
みっちは叫んだ。
階段へ走る。
三階。
二階。
一階。
後ろから、
足音。
ドン。
ドン。
ドン。
速い。
さっきより近い。
マンションを飛び出す。
コンビニ。
自動ドア。
光。
人。
レジ。
そこでようやく、
110番した。
8 誰もいない
警察官と部屋へ戻った。
クローゼット。
空。
ベッドの下。
誰もいない。
浴室。
誰もいない。
ベランダ。
誰もいない。
警察官が窓を見る。
「これ、開いてました?」
みっちは首を振った。
「閉めました」
窓が、
十センチほど開いていた。
警察官はベランダへ出た。
隣との隔て板。
配管。
建物の構造。
侵入経路になり得る場所を確認する。
しかし、その夜、その場で侵入者が見つかったわけではなかった。
「今夜は別の場所に泊まれますか」
みっちは頷いた。
沙織の家へ行くことになった。
部屋を出る前、
スマートカメラの履歴を保存した。
それが後になって、
重要な記録になった。
9 男は近づいていた
警察と一緒に過去の映像を確認した。
一日目。
建物の向かい。
二日目。
駐輪場。
三日目。
エントランス。
四日目。
共用廊下。
そして、
ベランダ。
少しずつ。
本当に少しずつ。
男は近づいていた。
みっちは一日ごとに忘れた。
AIは忘れなかった。
履歴をさらに遡る。
六月二十八日。
みっちがこの部屋を内見した日。
映像の端に、
男がいた。
道路の向こう。
こちらを見ている。
「……嘘」
みっちは画面から手を離した。
自分が男を知らなかっただけだった。
男は、
もっと前からみっちを見ていた可能性がある。
その事実が、
クローゼットより怖かった。
10 五千円の要塞
みっちは部屋を出た。
すぐに新居が見つかるわけではない。
それでも、あの部屋ではもう眠れなかった。
防犯を一から見直した。
窓の補助錠。
開閉センサー。
スマートカメラ。
センサーライト。
スマートフォンの緊急SOS。
家族との位置共有。
宅配は非対面。
マンションに近づいたらイヤホンを外す。
玄関前で鍵を探さない。
SNSはリアルタイムで投稿しない。
知らない人とエレベーターで二人きりになり、不安を感じたら自室へ直行しない。
一つ一つは、
驚くほど小さな対策だった。
AIが犯人を捕まえるわけではない。
カメラが格闘してくれるわけでもない。
でも、
人間が眠っている時間にもセンサーは働く。
昨日と今日の異常を記録できる。
人間が、
「気のせい」
で捨てたものを残しておける。
みっちは、ようやく分かった。
防犯とは、
恐怖に勝つことではない。
恐怖を感じる前に、小さな壁を何枚も作っておくことなのだ。
最終章 午前二時十三分の向こう側
後日。
捜査の進展について連絡があった。
みっちは詳しいことを聞かなかった。
別の女性を狙った事件との関連も調べられているという。
それ以上、
知りたくなかった。
しばらく実家で暮らした。
あれほど無防備だった実家にも、補助錠をつけた。
センサーを置いた。
カメラも設置した。
母は最初、
「そこまでしなくても」
と笑った。
みっちは笑わなかった。
ある夜。
布団に入った。
田舎の夜は静かだった。
虫の声。
遠くを走る車。
柱時計。
カチ。
カチ。
カチ。
午前二時十二分。
目が覚めた。
理由はない。
ただ、
身体が覚えていた。
2:13。
ブッ。
スマートフォンが震えた。
心臓が跳ねる。
画面を見る。
《人物を検知しました》
玄関カメラ。
誰もいない。
道路。
誰もいない。
「……誤検知か」
息を吐いた。
その瞬間。
もう一つ通知が重なった。
《過去の検知パターンとの類似を検出》
みっちの指が止まる。
保存映像が表示された。
道路の向こう。
電柱。
その陰に、
帽子をかぶった男。
過去の記録だった。
今ではない。
それでも、
身体は理解してくれない。
心臓が速くなる。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
みっちは画面を閉じようとした。
新しい通知。
《新規検知》
玄関。
異常なし。
庭。
異常なし。
室内。
――人物候補を検知。
みっちは動かなかった。
スマートフォンを見る。
カメラ映像。
自分の背中が映っている。
布団の上に座る自分。
その後ろ。
クローゼット。
四角い枠。
信頼度89%。
90%。
91%。
「……いや」
声にならない。
振り返ってはいけない。
あの夜、
AIが言った。
確認しに行かないでください。
みっちは110番を押そうとした。
その瞬間。
画面が切り替わった。
《カメラ視点が変更されました》
映っているのは、
みっちの背中。
しかし、
おかしい。
この部屋のカメラは、
みっちの正面にある。
なら、
これは、
どこから撮っている?
映像の中で、
クローゼットの扉が、
ゆっくり、
三センチだけ開いた。
ギ……
今度は、
スマートフォンからではなかった。
背後から、
同じ音がした。
みっちは目を閉じた。
画面に最後の表示。
《人物:検知中》
その下。
《継続監視中》
AIは眠らない。
人間のように、
「きっと大丈夫」
とも思わない。
三階だから。
田舎だから。
オートロックだから。
昨日まで何もなかったから。
AIには、
そんな安心感はない。
異常があれば、
ただ知らせる。
だから、
みっちはスマートフォンを握った。
立ち上がらない。
振り返らない。
確認しない。
そして、
通報する。
午前二時十三分。
誰もいないはずの部屋で、
もう一度だけ、
通知音が鳴った。
夏は、心にも鍵を。
この物語はフィクションです。
けれど、みっちの「油断」はフィクションだけの話ではありません。
「三階だから大丈夫」
「オートロックだから大丈夫」
「少し窓を開けるくらいなら」
「SNSに住所を書いていないから」
「気のせいだろう」
その小さな安心を、一度疑ってみてください。
AIやスマートカメラは万能ではありません。
誤検知もあります。
警察の代わりにもなりません。
それでも、開閉センサー、人物検知カメラ、スマートフォンの緊急SOS、位置共有、補助錠を組み合わせれば、人間の「うっかり」を補う防犯の一層にはなります。
一番大切なのは、
異変を感じたときに自分で確かめに行かないこと。
安全な場所へ移動すること。
記録を残すこと。
そして危険が迫っているなら、ためらわず110番すること。
あの夜、
みっちを救ったのは、
派手な最新兵器ではなかった。
スマートフォンに表示された、
たった一行だった。
《確認しに行かないでください》
もし、あの一行を無視して、
みっちがクローゼットを開けていたら――。
その続きを、
彼女は今でも考えないようにしている。
# あとがき
本作を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この物語は、私たちが無意識に抱いている「正常性バイアス」と、無機質な「テクノロジー」の対比を描いたサスペンスです。
「三階だから」「田舎だから」「鍵をかけているから」……。
私たちが自分を安心させるためにつく小さな嘘を、AIは容赦なく数値と事実で暴いていきます。便利さの裏側にあるのは、人間が「見たくないもの」まで可視化してしまうという恐怖です。
作中の「確認しに行かないでください」という言葉は、防犯における鉄則です。好奇心や確認欲求が、時に最悪の事態を招くことがあります。もしあなたがスマートフォンの通知に違和感を覚えたら、そのときはどうか、自分の直感よりも「機械の警告」を信じてみてください。
あなたの部屋のクローゼットは、今、完全に閉まっていますか?
スマートフォンのカメラは、今、どこを向いていますか?
この物語が、あなたの日常に潜む「小さな隙間」を見直すきっかけになれば幸いです。
Hiro
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