人生という名の自分実験
脳卒中になった私の人生の転機は、すべて“しょうもない好奇心“から始まった
目次
第一章 ひねくれ者の自分実験
第二章 愛の力は侮れない
第三章 人生最大の発見
終章 人生に無駄なことはない
第一章 ひねくれ者の自分実験
物心ついた頃から、私はかなりひねくれていた。
人から何か言われても、すぐには信じない。
「本当にそうなの?」
と気になる。やってみる。確かめる。
納得して初めて前へ進む。
世の中を斜めから見ていたし、人の言うことも、先生の言うことも、そのまま信じるタイプではなかった。
そんな面倒くさい人間だった。
でも友達は多かった。
親友がいた。
学生時代からの大切な友人たちだった。
ところが、人生は容赦がない。
一人は事故で亡くなった。
もう一人は癌で亡くなった。
二人とも三十歳を待たずに。
どちらも同じ年に結婚した私にとっては、非常に大きな打撃だった。
今でもふとした瞬間に思い出す。
もし今も生きていたら。
そんな「もし」を考えることもある。
だが人生は、失ったものを返してはくれない。
当時の私は、
人生に意味なんてあるのだろうか。
生きる意味って何?
そんなことを考えていた。
そんな頃、「人生に無駄なことはない」という言葉に出会った。
本当か?と思ったが、その言葉は、私の心に深く突き刺さった。
そして,同じ頃,人生の師匠と呼べる人に出会った。
大阪出身の上司の看護師だった。
厳しい人だった。
でも、とても暖かく優しかった。
仕事のことだけでなく、何を話しても楽しかった。
そして何より、生きることと死ぬことについて、私よりずっと深く考えている人だった。
私はその人を人生の師と仰いだ。
師匠は私にたくさんの本を教えてくれた。
隆慶一郎の作品たち。
ヴィクトール・フランクル。
『夜と霧』。
師匠はよく、
「人間も植物と同じやで」
と言った。
花が咲き、
やがて枯れるように、
人間も生きて、
そして死ぬ。
特別なことではない。
そして最後に必ず、
「人は死ぬまで生きなあかん」
と付け加えた。
そんな姿勢を、言葉だけではなく生き方でも見せてくれた。
私はその影響を強く受けた。
もっとも、その時点ではまだ、
人生に無駄なことはない
という言葉を信じていたわけではない。
「そうなのかなぁ」
くらいである。
ひねくれ者なので。
その頃の私はSMAPに夢中だった。
地元コンサートに行く。
遠征にも行く。
LIVEに行くために仕事をする。
LIVEが終わったら、次のLIVEに行くためにまた仕事をする。
今思えば、なかなかのオタクっぷりだった。
だが私にとっては、それが当たり前だった。
好きだから行く。
会いたいから行く。
ただそれだけである。
人生に意味があるとか、
将来役に立つとか、
そんなことは考えていなかった。
そして私は、出産後から高血圧だった。
それでも、あえて高血圧の薬を飲んでなかった。
褒められた話ではない。
医師にも「飲んだ方がいいよ」と言われた。
同僚にも言われた。
友達にも言われた。
それでも飲まなかった。
もちろん、良いことではないと分かっていた。
いつか何か起こるかもしれない、とも思っていた。
その時の私は、
「血圧の薬なんて、飲みたくないなら飲まなくていいじゃん」
と思っていた。
だって症状が無いんだもん。
症状が無いのに毎日薬飲むの面倒くさいんだもん。
それだけだった。
振り返れば、
親友との別れも、
師匠との出会いも、
SMAPも、
高血圧のことも、
まだ何一つ つながってはいなかった。
少なくとも、私にはそう見えていた。
だが人生は不思議なものである。
意味があるように見える出来事より、
意味などないと思っていた出来事の方が、
後になって大きな意味を持つことがある。
この時の私は、
まだそのことを知らなかった。
第二章 愛の力は侮れない
人生は不思議なものである。
大きな出来事が人生を変えるとは限らない。
むしろ、
「何となく始めたこと」
の方が後になって大きな意味を持つことがある。
その代表が中国語だった。
きっかけは中国ドラマである。
ある日、何気なく見始めた中国ドラマに、私は見事にはまった。
続きが気になる。
登場人物が気になる。
俳優が気になる。
でらカッコイイ❤️
気がつけば、すっかり沼にはまっていた。
気がつけば、すっかり恋に落ちていた。
彼の他の作品が見たい!
ところが、日本に入ってくる中国ドラマは少ない。
そして入ってきた作品が、必ずしも彼の出演作とは限らない。
YouTubeならあるかもしれない。
探してみた。
あった。
だが、中国語字幕と英語字幕しかない。
バラエティ番組にいたっては、中国語字幕しかない。
日本も漢字文化だからなんとかなるか?と思った。
でも何を話しているのか分からない。
なぜみんなが笑っているのかも分からない。
これは、私が理解するしかない!
愛の力である。
そう思って中国語学習を始めた。
もちろん、その時は人生が変わる、などとは思っていない。
ただ好きだっただけだ。
好きな俳優が何を話しているのか知りたい!
インタビューを聞いてみたい!
本当に字幕通りなのか、
彼が本当は何を話しているのか、それが分かるようになりたい!
それが一番の目的だった。
偶然だが、職場には台湾人のDr.がいた。
時々、中国人の患者さんも来た。
中国語を覚えたら、少し仕事に役立つかもしれない。
その程度の気持ちもあった。
もちろん試験を受けるつもりはない。
ただの乙女心の為せる技である。
世間的に見れば、
ずいぶん役に立たないことを始めたように見えたかもしれない。
私自身も思った。
アホだな。
やるなら英語だろ。
でも、
私がやりたいのは中国語なんだもん。
しゃーない、しゃーない。
そう言いながら独学を始めた。
始めてみると、中国語は思った以上に面白かった。
一つ分かると嬉しい。
ドラマの中のセリフで、聞き取れる言葉が増えると嬉しい。
NHKのTVで中国語も、少し分かると楽しい。
気がつけば、俳優だけではなく、中国語そのものが好きになっていた。
そんな頃、私は病棟へ異動になった。
私は外来の仕事が好きだった。
だから、
そのうち病棟も好きになるのかな。
と思っていた。
だが一年経っても、
二年経っても、
三年経っても、
一向に好きにならない。
四年経ってようやく気づいた。
あ、私、病棟が好きになれない人なんだな、と。
人間、向き不向きがある。
それが分かっただけでも収穫だった。
だが病棟では、思いがけない出来事もあった。
ある日、中国人の患者さんが入院してきた。
ところが、その患者さんは日本語が全く話せなかった。
私は中国語をやっていた。
とはいえ、まだ挨拶程度である。
当然ながら戦力にはならない。
そこで私は衝撃を受けた。
助手さんの中国語がペラペラだったのである。
いや、ペラペラどころではない。
普通に会話している。
私は打ちのめされた。
独学で少し分かるようになった気でいた。
だが、本当に話せるとはこういうことなのだ。
私の中国語なんて、まだ入り口にも立っていなかった。
これはちゃんと習わないとダメだ。
そう思って中国語教室へ通い始めた。
すると、ますます面白くなった。
発音の仕組み。
文法。
単語。
知らない世界がどんどん広がっていく。
ちょうどその頃、夫の転勤で横浜へ引っ越す話が出た。
私は迷わなかった。
新しい場所も面白そうだ。
そう思った。
横浜でも中国語を続けた。
どんどん楽しくなってきた。
調子に乗った私は、中国語の試験も受けてみた。
すると受かった。
嬉しかった。
もっとやりたい。
もっと話したい。
そんな気持ちが、日に日にどんどん大きくなった。
そして、
中国語するなら中華街じゃん!
という単純な発想で、中華街の近くのクリニックに就職した。
そこは、同僚は中国人。
中国人の患者さんが来る。
中国語を使う機会がある。
中国語を学べて、お給料ももらえる。
ランチは中華街。
美味しいお店も教えてもらえる。
私にとっては最高の職場だった。
中国ドラマから始まった中国語が、
こんなところまで連れてきてくれるとは思わなかった。
そして数年後、この中国語が私を助けることになるなんて、
この時の私もまだ知らなかった。
第三章 人生最大の発見
ある日突然、
脳出血になった。
右麻痺になった。
失語症になった。
三つ同時である。
看護師だった私は、脳卒中の患者さんをたくさん見てきた。
だから何が起きたのかは分かった。
分かってしまった。
ああ、脳出血か。
そう思った。
自分が高血圧だったことも知っていた。
薬を飲んだ方がいいとも何度も言われていた。
それでも私は飲まなかった。
だから、そうきたか、と思った。
そして、自然に
これからは、リハビリが私の仕事だな、
と思った。
右手は動かない。
言葉は上手く出ない。
寝ている以外は、すべて出来ないことだらけになった。
朝、目が覚めても、メガネをかけるだけで一苦労だった。
左手一本だけでかけるのだが、たいてい右の耳に引っかからない。
毎回、右耳に突き刺さる。
でも感覚麻痺もあるので、
ちゃんとかかっているのか、
耳に刺さっているのかも分からない。
「耳、どこ行った?」と思うくらいである。
でも私は、
「ほほぅ、右麻痺はこうなるのか」
「さて、どうしようかな?」
という気持ちの方が強かった。
私は昔から、分からないことを面白がる人間だったからだ。
一番古い記憶は高校生の頃である。
来年は高三だから何となく想像できる。
でも、その次の年はどうなるんだろう?
何度も考えた。
不安もあった。
でも楽しみでもあった。
未来は分からない。
だから面白い。
今回も少し似ていた。
右麻痺になるとどうなるんだろう。
失語症になるとどうなるんだろう。
私はどうやって生きるんだろう。
看護の教科書には載っていないことばかりだったし、
まさか自分が右麻痺になるなんて、夢にも思っていなかった。
落ち込むとは違う、なんとも言えない不思議な気分の中にいた。
これこそが、自分実験だがね!
そして、私の人生最大の幸運がここにあった。
急性期病院のリハビリ担当者が、めちゃめちゃイケメンだったのだ。
しかも二人も!
私は断言する。
私の人生最大のモテ期はここだった!
動かないし感覚もないが、右手を握ってもらえる。
歩行練習では肩を抱いてもらえる。
毎日イケメン達に優しくされる。
ウフフ。
午前中は足のリハビリ。
リハビリをしながら、
「やっぱり、こっちの方がカッコイイかなぁ」
と思う。
ところが午後になると、手のリハビリが始まる。
「いや、こっちの方がカッコイイか?」
私は答えの出ない問いに、
毎日真剣に悩み続けた。
毎日が超楽しい!バラ色だ!
パラダイスである!
そりゃ、頑張るわな。
人間、どんな時も動機は大事である。
その後、回復期リハビリ病院へ転院した。
そこでも私は幸運だった。
同室のおばあちゃん達に恵まれたのである。
一人はとてもストイックだった。
毎日黙々とリハビリをする。
私達と部屋で話す時ですら、立って足踏みをしている。
弱音もほとんど吐かない。
「仕方がないのよ、アハハ」が口ぐせの人だった。
私は心の中で「ストイックさん」と呼んでいた。
もう一人は九十四歳のおばあちゃんだった。
とにかく元気だった。
この人もよく笑う。よく喋る。
そして、すぐ忘れる。
でもイケメンのことは絶対忘れない。見事だ。
私は二人が大好きだった。
そんなばあちゃんずと、一番盛り上がった話題は、
「どうやってこの病院から逃げ出すか?」
ということだった。
病棟は二階で、
エレベーターは職員カードがないと動かない。
私が、
「どうにかしてエレベーターに乗って……」
と言うと、
「ダメよ!下に行けても、そこからどうやって車に乗るか考えなきゃ!」
とストイックさん。
「そんなことはみんなやったのよ!」
と九十四歳さん。
えっ、みんな考えたんだ!
しかも実行したんだ!
と私はビックリして、大笑いした。
そこへ職員さんが来て、
「楽しそうだね。何の話?」
と聞くと、
ストイックさんが、
「ここからどうやって逃げるかって話。アハハ」
と即答した。
職員さんは、一瞬目を丸くして固まっていた。
そして私たちは、その後も三人で、「あーでもない、こーでもない」と
笑って、脱走計画を練る毎日だった。
リハビリは、決して楽なことばかりではない。
思うように体は動かないし、言葉も出ない。
それでも病室へ戻れば誰かがいる。
一緒に頑張る仲間がいる。
一緒に笑ってくれる誰かがいる。
それだけでどんなに救われたことか。
今でもばあちゃんず二人との出会いは、私の病院生活の宝物だと思っている。
そして2人が退院していき、取り残されたある日、
暇潰しに中国語をしていて、ふと思った。
中国語、リハビリに使えるんじゃね?
ばあちゃんずが退院して、おしゃべりする相手がいなくなった私は、
中国語を再開していたのだ。
試しに失語症のリハビリだと思ってやってみると、面白い発見があった。
前に出来ていた発音が、うまく出来ない。
舌が回らない。
スマホの音声入力が認識してくれない。
あれ?
前より発音できとらんがね。
アプリは容赦なくダメ出しをしてくる。
中国人の看護師さんは、
私の下手くそな中国語でも、一発で理解してくれるのに!
アプリのくせに、生意気なんだよ!
そんなことが何度もあった。
だがその度に、新しい気づきもあった。
中国語を話そうとすると、
口を動かす。
舌を動かす。
聞き取ろうとする。
思い出そうとする。
失語症になった私には、その全部が必要なことだった。
もちろん医学的なことは分からない。
これは勝手な私調べである。
だが、中国語を続けているうちに、
少しずつ話しやすくなってきた。
発音もしやすくなってきた。
何より楽しかった。
リハビリだから続いたのではない。
好きだから、面白かったから続いた。
そして気がつけば、
ほぼ不自由なく喋れるようになっていた。
振り返ると不思議である。
親友との別れ。
師匠との出会い。
SMAP。
中国ドラマ。
中国語。
横浜への引っ越し。
中華街のクリニック。
脳出血。
その時その時は、
ただ自分がやりたいと思う方へ、進んできただけだった。
だが後になって見ると、
ちゃんと繋がっている。
意味を持っている。
昔の私は、
「人生に無駄なことはない」なんて、
本当かな、と疑っていた。
今も理屈では説明できない。
でも、自分の人生を振り返ると、
無駄だったと思うことが一つも見つからないのである。
終章 人生に無駄なことはない
このエッセイを書き始めた時、
私は昔の出来事を順番に並べていただけだった。
親友との別れ。
師匠との出会いと別れ。
SMAP。
中国ドラマ。
中国語。
脳出血。
右麻痺。
失語症。
その時その時の私は、先のことなど何も考えていなかった。
ただ目の前のことを生きていただけである。
だから書き始めた時は
「人生に無駄なことはない」
という結論を証明したくて書いていた。
昔の私は、その言葉を疑っていた側の人間だったからだ。
無駄なことなんて山ほどあるだろう。
何言っとるだ。
そう思っていた。
ところが五十代も半ばになって振り返ってみると、何でか分からんけど、
無駄だったと思う出来事が見つからないのである。
人生って不思議だよね。
親友との別れは、生きることや死ぬことを考えるきっかけになった。
師匠との出会いは、私の人生観を大きく変えた。
SMAPは、毎日働く原動力になった。
中国ドラマは、中国語へつながった。
中国語は、中華街のクリニックへつながった。
そして、中国語は、失語症になった私を助けてくれた。
どれも始めた時は、こんな結果になるとは思ってもいなかった。
ただその時の私は、
やりたい。
面白そう。
楽しそう。
そう思っただけだった。
美味しそう、かわいい,と同じである。
でも書きながら気づいたことがある。
私の人生の選択基準は、ずっと同じだったのだ。
楽しいか、楽しくないか。
面白いか、面白くなさそうか。
それだけである。
将来役に立つかどうかなんて、考えてもいない。
効率も考えていない。
人生設計も大して考えていない。
ひどい話である。
行き当たりばったりにも程がある。
だが振り返ると、その時は意味がないように見えたことが、
後になって私を助けてくれている。
人生は面白い。
本当に面白い。
もちろん私は、脳出血になって良かったとは思わない。
健康第一である。
これは声を大にして言いたい。
もし時間を戻せるなら、高血圧の薬を飲んだほうがいいに!
と過去の自分に強く言うだろう。
だが脳出血になった後の人生まで否定したいとは思わない。
こうなったからこそ、出会った人達がいる。
見えた景色がある。
知ったことがある。
そして今も新しい発見がある。
新しい毎日がある。
だから私は今日も、
面白そうな方を選ぶ。
失敗してもいい。
意味が分かんなくてもいい。
きっとそのうち分かるから。
だから今日も、
「今日は何が起きるんだろう?」
とワクワクしながら、
人生という名の自分実験を続けている。
人生って楽しいよ♡
