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【アーカイブ/展覧会レポート】「横浜トリエンナーレ2001」、「村上隆展」

※このレポートは、次のふたつの展覧会について自問自答形式で書いたものです。2002年1月脱稿。
「横浜トリエンナーレ2001|メガ・ウェイヴ|新たな総合に向けて」2001年9月2日~11月11日(みなとみらい21地区)
「村上隆|召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか」2001年8月25日~11月4日(東京都現代美術館)

問1 現代美術のオリンピックとでも言うべき「横浜トリエンナ-レ2001」が開催されたが、どういった印象を持ったか?
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 まあ、様々批判することは簡単だろうと思うが、まず、評価できる面を挙げてみよう。キュレータを複数(4人)にしたということも影響していると思うが、結構、多様な傾向の作品が選ばれており、幅広く楽しめたのではないだろうか。これは今の〝現代〟美術の状況が「なんでもあり」の闇鍋・ごった煮化しているという状況を〝素直〟に反映していると〝素直〟に評価しても良い。逆に、このことを「メガ・ウェイヴ|新たな総合に向けて」という統一テーマが付いていたにもかかわらず、それが拡散してしまった感があると月並みに批判することもできるとは思うが、皮肉ではなく、テーマなんてものは、そもそも、空振りに終わることが多いわけで、無理に、統一感を捻り出すよりはマシだったのではないか。
 これも、皮肉と受け止めてもらいたくないのだが、あえて暴論的に言えば、もっと素直にこの「なんでもあり」化している状況を提示するために、例えば、上野の東京都美術館で開催される公募展に出品されるような額縁タブロー絵画やデパートの美術品売場の新築祝い贈答用インテリア油絵のようなもの等も含めて展示して、「何でも見せてしまうやり方も〝あり〟」だったのではないだろうか。つまり、「現代美術」ではなく「現代〝の〟美術」をまるごと見せてしまうのである。あたかも、皆様のNHKの紅白歌合戦よろしく、唱歌、民謡、オペラから古今の流行歌まで全部やってしまうのである。
 とかく、〝現代〟美術に係わっている人にとっては、ふつうの油絵や日本画や純粋インテリアとしてのいわゆる売り絵などは、とるに足らないどうでも良いものとして、その存在自体を見て見ぬふりをしてしまい勝ちであるが、作家側はともかく少なくともコーディネィトするキュレータ側の人は、そういうものがそもそも同時代に存在してしまっていること自体をもう少し重く受け止めなければいけないのではないだろうか。換言すれば、この現象を、訳の分からない〝現代〟美術がいくら出現しても、西洋画や日本画といったジャンルが並列的に存在していってしまうという日本文化のルーズな重層性によるものであると分析することも可能なのであって、そういう並存現象をプルーラリズム(pluralism)と否定的に捉えるのではなく、カルチュラル・ダイバーシティ(cultural diversity)と肯定的に捉えるべきであるということだ(※1)。

(※1)カルチュラル・ダイバーシティ(cultural diversity):
 バイオロジカル・ダイバーシティ(biological diversity)=「生態的多様性」から転用した造語。文化的多様性。

問2 全体として、動画の映像作品や映像インスタレーションが多いような感じを受けたが、どう考えたか? ――――――――――――――――――――――――――――――――――
 確かに多い印象があった。ちょっと消化不良になりそうだった。必ずしも映像作品だから即悪いとは思わないが、多くの動画像作品に決定的に欠落していると感じた点は、見せる工夫が足りないということである。古美術の鑑定士(例えば中島誠之助)に言わせれば「それが風呂敷から一瞬のぞいただけで良いか悪いかが判る」物体モノ系作品と違い、特に動画系映像作品は一定の時間、鑑賞者を拘束しなければならないわけであるが、それにもかかわらず、その仕掛け・工夫が足りない。それは、何も大袈裟な仕掛けでなくても良いわけで、これは主にキュレータ側、運営側の責任範囲であるが、例えば、作品の上映間隔時間を表示しておくとか、椅子を置くとかの極く簡単な工夫でも良いので考慮すべきだったのではないか。
 動画系の映像芸術の先輩格として映画があるが、鑑賞者にとって映画なら真っ暗な空間で一定時間、それを見るしかなくなるという被拘束性がある。つまり、映画においては、作品と鑑賞者との間に、映画館という容器=メディウムについてのア・プリオリな合意がある。テレビにしても、茶の間なり自分の個室なりで見るとか、ながら視聴をするとか、留守録にしてあとで見るなど複数ではあるが鑑賞作法が一定確立している。当然、映画やテレビを鑑賞する作法は長い年月がかかってエートスとして形成されてきたわけであって、所詮ひとつの作品や展覧会で作法を確立するなどということはできるものではないが、言うなれば、スーパーエゴとしての鑑賞作法が確立していないということをキュレータを含む見せる側の方々が明確に認識すべきである。そういう自覚症状を持って作品をインストールしてくれないと、鑑賞者は見る姿勢をどのように作ったら良いのか戸惑ってしまい、作品の中身を見る前に見ること自体が苦痛になってしまう。最後まで見てくれるだろうという甘えが主催者側にあるのではないか。
 また、これと横並びのことであるが、今回の横トリにはあまりなかったようではあるが、IT(情報技術)を使った昨今流行のメディア・アートといわれるようなインタラクティヴ作品にも同じことが言える。インタラクティヴであるということに頼りすぎている、インタラクティヴだから芸術的コミュニケーションが即成立している、インタラクティヴだから鑑賞者との作法が確立している、と安易に考え勝ちな陥穽である。分かり易く喩えれば、単にインタラクティヴでありさえすれば良いのなら、TVゲームは全部アートになってしまうのと同じ誤認である。つまり、インタラクティヴ・アートにおける鑑賞者のリアクションはそれだけでは単なるリスポンスでしかないのであって、それがクリティークのレベルにまで高まってこそ初めて芸術的コミュニケーションとして成立するのである。
 また、映像インスタレーション作品が多かったということを別の観点から分析すると、映像作品やインスタレーションが西欧モダニズム美術の伝統という重い尻尾を殆ど引き摺っていないということが関係しているともいえる。要するに、油絵というそれこそリテラルにねっとりした厄介な西欧モダニズム空間と格闘せずにそこを一足飛びに省略してしまうことが一見容易なわけである。したがって、当然ながら西欧以外の美術シーンにおいてこのことは顕著になる。もちろん、新しいメディウムを追求すること自体を否定はしないが、一方でそういう地に足が着いたメディウムについて、しっかり追求していかないと結局根無し草になるような気がしてならない。

問3 これも最近の現代美術の傾向であるが、大きい作品も多かったようだが、このことを含め作品の全体的な傾向・質としては、どうだったか? 
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 大きいとただそれだけで迫力が出るが、これに安易に頼らないことが行儀であると思う。言ってみれば、フォンタナの後にカンヴァスを切ってもしかたがないし、クリストの後では、巨大であることにも慎重であるべきである(※2)。
 また、これは社会全体の風潮とリンクしているのかも知れないが、なぜかヒーリングを感じてしまう作品が多かったようにも思った。作品のコンテンツとしては、むしろ、エロやグロだったりするのだが、それを表現している感性は、なぜかヒーリングを感じてしまう。エロ・グロであることが、かえって浮いたお化粧のようにあざとく見えてしまうのである。
 それと、先程の「なんでもあり」でかえって良かったということと逆のことを言っているように聞こえてしまうが、全体として、徹底したエンタティンメント性でもなく、もちろんあくまで高尚な芸術性を志向するでもない、虻蜂取らずな感が否めないと思った。もちろん仮にエンタメ性を強調するなら、アミューズメントパークとの差異性を意識しなければならない。いわば、大人の文化としての最低線は死守してもらいたいという気はする。
 ところで、同行した友人の鳥須丹氏は、フィオナ・タンの京都三十三間堂で行われる通し矢の成人式を撮影した《サン・セバスティアン》とヲダ・マサノリの時間、思い出・記憶を吸い取ったようなゴミの作品がかなり気になっていたが、これらに共通し、先程のエロ・グロ系と対比をなすのは、何かを声高に主張する饒舌な作品よりも、逆に鑑賞者が思い入れを込められる寡黙な作品の方に惹かれてしまうということが言える。これは、本当の皮肉でいうのだが、気が付くと、会場であった赤レンガ建築の内部階段の透明ガラスの下に見えたゴツゴツしたレンガや、赤レンガ館の横にあった雑草が生えた赤レンガ建築の廃墟のほうが良かったと思わず感じてしまった。なお、このことは、ある意味で鑑賞者側が作家側に対して一種の優位性を持ってしまうというモダニズム美術が逢着した究極のひとつの現われでもある(※3)。

(※2)作品の大きさ:
 浅田彰氏指摘のように、草間弥生氏の岸辺にミラーボールを2000個浮かべた作品《ナルシス・シー》は、逆に大きさ(ミラーボールの数)が不足していた。
(※3)モダニズム美術の寡黙さ:
 美術におけるモダニズムをその絵画なら絵画というメディアへの純粋還元と定義する立場からは、作品を構成する要素が引き算されるにつれ作品が寡黙になっていくのは必然であって、そうなると逆に鑑賞者側の思い入れ、解釈、クリティークが多様化するのも、これ必然である。そして、そのひとつの究極としてミニマル・アートの出現をみるのである。

問4 ところで、奇しくも当代の売れっ子スターである村上隆と奈良美智の大規模な個展がほぼ同時期に開催されていたが、これも含めてどうだったか?――――――――――――――――――――――――――――――――――
 私は基本的には村上の作品をあまり評価していないのだが、村上の展覧会は、平面作品よりも立体作品が、さらに、作品そのものよりも彼のファクトリーの日常制作作業を撮ったビデオのほうが――そして、オープニングのお祭イベントは見ていないが、多分お祭のほうが――よりマシだったと感じた(※4)。これは何でなぜだろうかと考えてみると、村上氏のワークスは、いわゆる作品だけでなく、村上全体、つまり村上の行動・ファクトリーの活動も含めてはじめて成り立っているということである。換言すれば、村上の場合、彼の作品が売買されるマーケット(市場)そのものも含めて表現として成り立っている――裏を返せばそれを含めないと成り立っていない――と言える。つまり具体的には、例えばDOB君がグッズなどにより、拡大再生産されて「気軽に」流通していることによって、表現として成立しているわけである。もちろん、これは批判という意味も込めてである。ただし、少しだけ村上をフォローするとすれば、村上が最近のいわゆるスーパーフラット派ともいえる潮流の中でこれらの傾向と一線を画しているのは、村上が、これを意識的に戦略としてやっている点である。また、このことは、最近の美術館で、展覧会そのものよりもグッズ売り場のほうが充実している、面白いことがあるこということにも通底している(※5)。これは、単なる文化の商業主義化とか、独立行政法人化された国立美術館のなけなしの生き残り策としての側面だけでなく、以下述べるように本質的な問題から発する現象として分析可能である。
 友人の鳥須丹氏はこれを〈セラブル=コマース(sellable=commerce)理論〉と命名したが、まさしく、そういう切り口において(のみ)、村上は、戦後現代美術に対してクリティカルなポジションを占めたと評価したい。村上氏の「美術は地味だ」等の発言を聞くと、J-POPのような巨大大衆消費市場に対する憧れ――私も昔、ニューミュージック業界が羨ましかったことがあるが――が読み取れるのもその表れであると思う(※6)。これも、先程の話と同じく、戦後現代美術の住人たちが「生きてこなかったシナリオ」のひとつであり(※7)、「売れる」ということを蛇蠍のごとく嫌悪してきた戦後現代美術に対する重要なクリティークになっていると考えている。
 私は、ここで、この理論をより敷衍化して、その〈売れる〉という概念のメタ概念として〈伝世〉という概念をオファーしたいと思う。もともと〈伝世〉とは古美術・骨董の分野の用語なのだが、ある古美術品が、発掘された埋蔵モノや沈没船からの海揚がりモノではなく、松平不昧公などの数寄者・コレクターによって連綿と伝え引き継がれ、残され保存されてくること、という意味である(※8)。つまり、私が言いたいのは、ある作品なり芸術ジャンルなりが、単に売れたり、流行ったりするということが重要なのではなく、むしろ〈後世に伝わる〉ということ自体が再評価されるべきであるということである。――ちなみに、もし、家元制度にその存在意義があるとすれば言わば無形物の〈伝世〉という一点に他ならない。――言い換えれば、必ずしも売買という商行為、市場を経たものでなくても、良品は〈伝世〉するということである。これも戦後現代美術が極端に等閑視してきたことであるが、パフォーマンスやインスタレーションはその場で消えてしまうこと、むしろ、その場で消えてしまうことにこそ一種の潔さ的価値をおいてきた(※9)。したがって、当然、マーケット・市場は成立しにくい訳で、〈マスターベーションで大いに良し〉としてきた側面が否めない(※10)。それは造形芸術の最大の利点である〈そのものをそっくり残すことができる〉という王道を敢えて切り捨ててきたということも意味する。その証拠にそれらの一回性的な現代美術は、写真やビデオなどの映像で記録として残すことによって、消滅してしまう虚無感を辛うじて慰撫してきたきらいがないではない。例えば、音楽や演劇、ダンスなどの舞台芸術は、CDや映像では残すことができるが、それはどんなにテクノロジーが発達してもあくまでもコピーでしかないわけでオリジナルとしては不可避的に消滅する(※11)。これに対し造形芸術は、基本的にはそれをそのままそっくり〈伝世〉することができるわけである。この長所を生かさないのはすこぶる勿体無いと言わずにはおれない。言うなれば、戦後現代美術は、所有する欲望と所有される喜びをあまりにも抑圧し過ぎてきたのではないかということである。言い換えれば、売れるvs.売れない≒残るvs.残らないという振り子の振れの中間に解があるのではないだろうか。そういう意味で今まさに現代美術は、無形、有形という系譜を超えて〈伝世〉されることによって成立するという支えを渇望しているのではないかとさえ思うのである。

(※4)奈良美智展:
 奈良展は見なかったので、本来コメントは避けるべきだが、奈良氏の作品についても基本的にはあまり評価しないが、奈良氏の作品は、村上氏とは逆に、おそらく、立体よりは平面のほうが絵画的な精度(例えば画布の切れ端を貼り付けるなど)が幾分か備わっていて、よりマシだったのではないかと推測する。
(※5)グッズとしてのアート:
 奈良展はグッズが大好評だったとの報告がある(美術手帖2001年12月号、102頁、椹木野衣氏の奈良論)。
 また、テレ東の「誰でもピカソ」の「誰ピカ商店」もアヴァンガルドであることをそのレゾン・デートルとして自認してきた〝戦後現代〟美術に対して一定のクリティークになってはいる。
(※6)村上氏の巨大資本市場に対する憧れ発言:
 2000年11月30日「原宿フラット」パネルトークでの発言(美術手帖2001年2月号178頁、「美術というのはひじょうにマイナーな文化なので・・・」、同183頁の1兆円美術ファンドの話題。)。
(※7)「生きてこなかったシナリオ」:
 もともと臨床精神分析療法の用語で、ある一人の人間はその人生において全ての岐路を生きることはできない訳であって、選択しなかった無数の人生のシナリオを切り捨てることによって人生を歩んできた、ということ。切り捨ててきたシナリオが深層意識に抑圧されて、それが意識と葛藤することにより病理が発現する。
(※8)「伝世」の機能:
 誰によって所有・伝世されてきたのかということが、その品物の評価・付加価値を高めるという機能もあるようである。
(※9)残らない作品:
 ここでも、クリストがひとつの究極をみせている。つまり、クリストの作品は贈り物のように梱包されているにもかかわらず所有することができない。また、クリストは自身の作品である巨大プロジェクトを賄う資金を全てデッサンやマケットを販売することにより調達しており、この点も現代美術マーケットに対して優れてクリティークのある作品になっていると言える。
(※10)現代美術市場:
 川勝平太氏の「文明の海洋史観」を緩用して考察するとすれば、グロ-バリズムとしての欧米近代文化(経済)は、伝統的に海外市場を前提としてきており、その市場規模ゆえに、訳の分からない〝現代〟美術もある程度、市場として成り立ってしまうのに対し、日本で〝現代〟美術市場が成立しにくい理由は、日本文化がその経済と同様に伝統的に内需志向型・鎖国型であることから、市場規模がクリティカル・マス(ある市場が需要と供給のバランス上、自成的な市場として成立するための規模的閾値)に達しないためであるということも言える。
(※11)芸術作品とオリジナルとしての物質:
 版画や写真、映画はそもそもマルティプルであることを前提にしているのでオリジナルという概念は希薄であるし、文芸に至っては物質としてのオリジナルは存在しない。


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