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listen to the radio と同様、かつては watch the TV と言っていた

1920〜30年代に普及したラジオと、1950年代以降に爆発的に普及したテレビ。この2つのメディアは、英語圏の August Body(社会大衆)に受容されるプロセスにおいて、「身体的・空間的な関わり方」が決定的に異なっていました。

かつて watch the television/TV と定冠詞付きで呼ばれていたものが、なぜ the を失い、今や watch TV という無冠詞の空間へと変貌を遂げたのか。その認知の歴史を紐解くと、人間とテクノロジーの距離感の変遷が鮮明に見えてきます。

1. ラジオ黎明期:公的システム(The)への「参入」

ラジオが誕生した当時、人々にとってそれは単なる「木箱(受信機)」ではなく、「国家や放送局が運営する、目に見えない巨大なインフラ・社会的ネットワーク」でした。

  • 「1つのプラットフォーム」としての認知:

    1. 当時の人々にとって、ラジオを聴く行為は、鉄道(take the train)や新聞(read the newspaper)を利用するのと同様に、「社会的に共有された唯一無二の公的システム(=他でもない『これ!』と指せる構造物)」にアクセスすることを意味していました。これが listen to the radio の the の正体です。

  • 身体的な儀式性:

    1. 初期のラジオは電波が弱く、家族全員が居間の1台の端末の前に集まり、息をひそめて耳を傾ける「能動的で厳かな儀式」でした。媒介物(メディア)としての境界線が明確に存在していたのです。

2. テレビの登場と the の喪失:家具から「空気(環境)」へ

1940〜50年代、テレビが一般家庭に導入された当初、新聞の番組表や初期の文献では、確かに watch the television という表現が頻繁に使われていました。当時はまだ、テレビも「劇場」や「映画館」の延長線上にある、特別な「1つの社会的装置(システム)」として扱われていたからです。

しかし、テレビの普及スピードと家庭内での定着の仕方は、ラジオのそれとは全く異なりました。

① 視覚の独占による「現実空間の書き換え」

ラジオは「音」だけなので、聴きながら作業をするなど、現実空間の主導権はまだ人間にありました。しかし、テレビは「映像と音」で人間の五感を強力に拘束します。テレビのスイッチを入れた瞬間、居間は「自宅の部屋」から「テレビが提供する情報空間そのもの」へと一変します。

② 「物体」から「ただ流れるストリーム」へ

テレビは急速に低価格化し、一家に1台、さらには各部屋に1台の時代を迎えます。こうなると、人々は「テレビという受像機(ハードウェア)」を意識しなくなります。テレビはスイッチをひねれば24時間いつでも映像が湧き出てくる、水道や電気と同じ「ライフライン(環境インフラ)」へと退化した(あるいは純化した)のです。

3. なぜ the が消えたのか?(認知言語学的アプローチ)

英語において、本来数えられる名詞から the も a も消える(無冠詞化する)のは、その名詞が「具体的なモノ・特定のシステム」としての輪郭を失い、人間の「目的・行為・空間そのもの」と同化・抽象化したときです。

  • go to school(× 学校という建物に行く ➔ ◯ 勉強する、学生生活を送る)

  • go to bed(× ベッドという家具に向かう ➔ ◯ 眠りにつく)

これと全く同じ現象がテレビに起きました。

watch the TV ➔ 「テレビという特定の一台の装置」に視線を向ける。

watch TV ➔ デバイスの存在は消え去り、そこに流れている「テレビ放送という概念・情報空間」を享受する。

人々にとってテレビは、わざわざ定冠詞をつけて「あのシステム」と指し示す対象ではなく、最初からそこにある「空気」や「背景」になってしまったため、言語のインターフェース上から the が脱落したのです。

4. では、なぜラジオには the が残り続けたのか?

テレビが空気(無冠詞)になったのに、ラジオに今でも the がついている理由は、メディアとしての「後退(クラシック化)」にあります。

テレビの爆発的普及によって、ラジオは「家庭の中心にある主役(環境)」の座を追われました。結果として、ラジオはふたたび「車の中で意識的にチューニングを合わせる特定のメディア」や「BGMとして選択する固有の配信システム」という、輪郭を持った独立のシステム(the radio)のポジションに留まり続けることになったのです。

もし将来、あらゆる壁や空間に映像が常時投射されるのが当たり前になれば、TV という言葉すら消え、私たちはただ「空間を観る」と言うようになるかもしれません。言葉の冠詞の有無は、当時の人間とそのテクノロジーとの「心理的距離」をそのまま映し出す鏡なのです。

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