久しぶりの茶々
12月から何かと他に気を取られて全然妄想する暇がなかった茶々について、久しぶりに考える一日になりました。
きっかけは、NHKBSで観た映画「エルヴィス」。
監督がバズ・ラーマンなのでとても気になり、映画館に観に行こうと思いながらも、つい観逃してそのまま忘れたままになっていた映画でした。
それが、NHKBSで放送されるということで、忘れていたこと自体を思い出し早速観てみた、といった具合。
(ちなみに、NHKBSのプレミアム シネマのチェックは日課です)
で、それを観た感想。
それは、また何か別の機会にしたいと思います。
と言うのも、エルヴィス・プレスリーの知識がほぼゼロの私にとって、映画の内容がかなりショックなものであり、またいろいろと考えさせられるものでもあったからです。
一言では言い表せない感じ。
と言うことで、これはこれでいつか別の機会に思うところをつづりたい。
そんなわけです。
何故、「エルヴィス」からの「茶々」なのか
では今回、私は何故、映画「エルヴィス」を観て、茶々に思いをはせてしまったのでしょうか。
映画、あるいはエルヴィス・プレスリーの生涯をご存知の方ならば、もしかすると、少ーーしは、ちょびっとくらいは、薄っすらと「なるほど」と感じて頂けるかもしれません。
実は私、映画を観終わった後、映画の内容がどうのこうのと考えるよりもまず先に、これって茶々にも共通点がある気がするって思ったのですね。
具体的には、秀吉亡き後の大坂城内での茶々の立ち位置って、大スターに似ていると表現すれば分かりやすいのかも、と思ったのです。
大スターに群がる人々。いろんな思惑で。
茶々に群がる人々。いろんな思惑で。
豊臣への忠誠であれ、自分の家の再興のためであれ、何であれ。
天下の豊臣を背負って立たねばならない茶々には、「個人」として何かを選択できる余地はほとんどなかったのではないのだろうか、と。
ちょうど大スターが、大スターとして生きていかねばならないように、
茶々も「豊臣」のシンボルであったが故に、他人が勝手に抱くいろんな「豊臣」への思いを一身で背負い続けなければならなかった。
死後もなお、です。
茶々の、彼女の本心は一体どうだったのでしょうか。
それを知る術はもはやありません。
現代のように自分の意見を表明できるSNSもなければ、反論できる手段も場も無い時代です。言われたい放題、書かれたい放題です。
だからこそ、私は後世に作られた茶々のいわれなき汚名をそそぎたいと、映画「エルヴィス」を観終わった今、改めて思うのでした。
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最後までお読みいただきありがとうございました!