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世の中、頭の良い人が多すぎる。だから、私はSNSをやめた。

隣の芝生はなんとやら。自分の眼から観た「両者の芝生の色A・B」と、他者の眼から観た「両者の芝生の色A'・B'」は、違うにも関わらず。
そして、共通認識を持つことが出来ないがゆえに、我々は自我の同一性を維持できる。

例えば、ある絵画を観ても、ある音楽を聴いても、ある料理を食べても、ある匂いを嗅いでも、あるものを触っても、そこから得られる感覚は人それぞれ違うし、情報だって、同じようなものを観ているようで、同じものを観ていないのだ。

故に、好き・嫌い、という個性が出来る。言ってしまえば、欲の方角と動力量である。これは、まさしく多様性の本質であり、悲しい言い方をすれば、私達は永遠に同じ感覚や認識を持つことが出来ない、という結論になる。

ところが、SNSは「同じものを同じものと認識し、同じように捉え扱うこと」を、同調圧力的に強いられる気がする。これが、自分が自分じゃないような、社会の中の一パーツとして思えてしまう絶望感を誘起させる。

たかが、自分ごとき、80億人のホモ・サピエンスの中の1人、という無力感、大海を知ったことによる旅するカエルは、非常に無駄な苦労を強いられる。生活、人生の質を上げる上で、知る必要もない不幸な情報を識ることとなる。

その中で、同じ尺度、数値化された価値基準のもとに、ひたすら争うことで、こっちが正解であっちが不正解と喧伝し、勝ち・負けのゼロヒャクの馬鹿が溢れるSNSは、ずっと観ていると心労がただただ募るのみだ。
そして、勝つ?のは、いつも知能指数が高い人だ。これは、お金が手に入るとしても、つらすぎる、常に受験戦争のような世界だ。タフな誤謬を書けるもの、言えるものが、ただただ数の暴力で、勝つ?のだ。そもそも、勝つとか負けるとか、それはなんなのか、そこから定義し直したほうがよい。

非常に、疑問が募るのみで、限界を超えた。

だから、私はSNSをやめた。広過ぎる世界を観たいなら、実際の人間と話したほうが、良い意味で途方もない「その人が抱えてきた時間」が、視える。リアルのおじいちゃん・おばあちゃんの話を、公園で聴いたほうが、遥かに愉しいし、リアルがわかる。

何故、人々はそこまでして、工業生産品のような情報に、傾倒し過ぎるのか。私は、傾倒していたのか。甚だ、バカバカしくなってしまったのだ。まあ、とどのつまりはつまらなくなったし、更にはつらいので、つらい環境から逃げたということだ。何度、SNSの閉鎖的コミュニティから、追い出されたか、少なくとも3回以上はある。

であるのだが、多くのビジネスにおいて、スマートフォンもSNSもAIも、使うことを強要され、精神的に多大な疲弊を被っている。一見自由にみえる、実態はただの混沌極まれりな環境を、ただでさえつらい労働においても、上乗せされている。

もっと、楽に生きたいが、お金は稼がなければならない。といいながら、私はニートの発達障害者で、もう逃げきれないことはわかっている。

それにしても、あまりにもこの世の中は。ここで私は厭世を覚えても、後ずさりしか待っていないのだが。今日の私は、逡巡し脳内を右往左往しながら、素敵な明日を待つ。

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