第11話 イヤーブックの取材から(2000年3月号)
Jリーグの各クラブは、シーズン開幕前に『イヤーブック』を発行する。監督や強化責任者が、その年のクラブの目標や方針を語り、中心となる選手たちの抱負が綴られる。選手名鑑や年間スケジュール、スタジアムガイドなどが掲載され、クラブを応援するファン・サポーターにとっては必携の一冊となっている。アントラーズも1993年からイヤーブックの制作に力を入れていて、2000年は全選手のインタビューを掲載する146ページの充実した誌面とホームタウンのお店情報満載の別冊も付いて税込み1,000円。SOCIO会員の特典だったり、贈呈や営業にも活用されていたが、当時は10,000部から多い時では15,000部ほどが印刷されていた。
イヤーブックが一番売れるのは、ホーム開幕戦であることから、チームが年明けに始動するとすぐに取材が始まる。月刊誌のフリークスも2月号、3月号と発行されるので、開幕までの約1カ月半は寝る間もないような忙しさだった。
つらかった記憶が多いイヤーブックの制作だが、振り返れば楽しかった思い出もある。その1つが、取材の対象者が特別なこと。普段のフリークスでは依頼できないような有名人に、選手との対談や特別インタビューを申し込んで、実現したことが何度かあった。2000年のイヤーブックでは、巻頭対談として秋田豊選手と当時ダイエーホークスから移籍先を模索中だった工藤公康投手の対談が実現した。工藤選手は、西武ライオンズを何度も日本一に導き、1995年に移籍したダイエーホークスでも日本一に貢献。野球界を代表する左腕だった。
なぜ、工藤選手がアントラーズのイヤーブックに登場してくれたかというと、奥様の実家が鹿嶋だったそうで、シーズンオフの自主トレを鹿嶋でやっていたから。愛知県出身同士の秋田選手との交流もあり、2人は家族ぐるみの付き合いとのことだった。サッカーと野球、種目は違っていても、トッププレーヤー同士の話はおもしろい。トレーニング方法や勝負に臨む姿勢、メンタルの持ち方、これからの目標など、ここでしか聞けない話をたくさん聞くことができた。このとき、工藤選手はほぼ巨人への移籍が決まっていた。巨人に行くとは思っていなかったけれど、流れがどんどん巨人に傾いていって不思議だった、というようなことも話してくれた。
そんなインタビューを、熱心に聞き入っている人がいた。
フリークスやイヤーブックを印刷しているNTTプリンテック(現NTT印刷)の社員の人で、平田隆康さんという男性だった。平田さんは大学時代は駒澤大学で野球をしていたらしい。駒澤といえば東都大学野球の名門中の名門だが、プロや社会人で野球を続けられる人は一握りで、平田さんも卒業後はサラリーマンとして働いていた。
それから数年後、そのときの平田さんがNTTプリンテックを辞めて、高校野球の監督に就任したと聞いた。神奈川県の向上高校という学校だという。指導者として甲子園を目指すという夢があきらめきれなかったらしい。サラリーマンから現場復帰する熱意に驚かされた。
平田さんは、向上高校野球部の指導に情熱を注ぎ、強豪ひしめく神奈川県で甲子園が狙えるチームへと育て上げた。2014年夏、初めて甲子園をかけて臨んだ神奈川県県大会の決勝は、東海大相模に0-13で敗れたが、職場のテレビで応援した。
2024年の夏は、準決勝で東海大相模と対戦して4-6で惜敗。「監督の差です」と頭を下げたそうだ。
2025年、平田さんは50歳を迎える。2000年の工藤選手のインタビューが平田さんの人生にどの程度影響を与えたのかはわからないが、あれから四半世紀がたち、野球に夢をかけた平田さんの挑戦は今でも続いている。
