遅れてやってきた織姫の手を離したのは、きっと僕の方だった。
これは、2月からの5ヵ月間、世界遺産検定1級に初めてチャレンジした男の物語である。
あなたも、こういう ”恋をしたこと” ありませんか?
7月14日。僕は眠れずにいた。
今はもうすぐ深夜2時になろうとしている。
暗くなった部屋で目を閉じると、あの時の光景が脳裏をよぎって―――
僕はゆっくりと真夜中のキッチンに立ち、七夕を1週間ほど過ぎたこの日の出来事を静かに思い出していた。
今はコップにいくら水を注いでも満たされず、
現実は、ひんやりと僕の胸に沈んでいた。
*****
2月に誕生日を迎えたその日。
僕は君との将来を夢見て、真新しいテキストを開いていた。
最初は触るのが怖かったり、分厚さに気押されていたよ。
でもだんだんとページをめくる速度は上がっていって、知らなかったことを知る喜びを実感できるようになっていった。
うまくいかないことも多かったけど、次第にテキストを開くのが楽しくなってきた。
3月の試験申し込みの日。
僕は12時前にダッシュでトイレに駆け込んだよ。
7月14日に君と会うために、試験の申し込みをしなければいけない日だったんだ。
これは7月に入ってからわかったことだけど、受検番号の下4桁が「0001」だったんだよ。
数多くの受検者の中で、おそらく1番にアクセスしたんだ。そのくらい7月に君に会えるのを楽しみにしていた。
***
でも5月になると少し様子が変わってしまった。
僕は静岡県の伊豆にいた。
仕事のトラブルで朝から晩まで仕事ばかり……
仕事のパソコンを閉じても、頭の中はノイズでいっぱいだ。砂漠にポツンといるようだ。
テキストはいつもそこにあったのに、僕は現実から逃げて、得意の ”見て見ぬふり” を決め込んでしまった。
仕事を言い訳にしたかと思ったら、ある日は国立公園検定という別のことに癒しを求めていた。
今考えれば、その時間に少しでも勉強をしてたら…
どうして少しでも君のことを考えていられなかったんだろう…
ひどいよね?
言い訳と現実逃避をしていたこの期間は、1ヵ月半だ。
僕の仕事は出張が多い。
狭いキャリーケースの奥にしまって、僕は君を”なかったこと”にしようとしていたんだ。
重たいテキストだけをひっそりとキャリーケースに忍ばせて筋トレしてるだけ。
とんだ大バカヤローだ。
***
6月22日。この日は4月から予定していた”ある時限爆弾”が発動する日だった。
それはオンライン模試である。
模試すら、放り投げてしまいそうだった僕。
そんな時に声をかけてくれて、一緒に模試をがんばってくれた人もいたし、「自信をもってください」と励ましてくれた人もいた。
七夕の願いに、「合格できますように」と祈ってくれた人もいた。
仲間がいることを思い出すことができたんだ。
周りの人の助けを借りて、もう一度君への”想い”を思い出したよ。
相変わらず仕事は忙しかったけど、それからは1日1回はテキストを開くようにしたよね?
忙しい中で自習室を開いてくれた人や
僕の”一人時間差”で、まったく進んでいなかったハーフ模試の採点をしてくれた人。
感謝しかない。
***
7月13日。初めて降りた恵比寿という駅で
僕は一瞬どこに向かっているのかわからなくなった。
直前に詰め込んだテキストのせいか⋯それとも午後の日差しのせいだろうか…
14時30分。
灼熱の午後のことだ。
僕は初めて君との時間を過ごした。
与えられた90問を、90分で答えていく。
不慣れで緊張していた僕は、問題用紙のシールを開封することすら、上手くできなくて破いてしまいそうだったよ。
15時15分。45分が経過し、試験官の
「試験時間の半分が経過したので終わった人は部屋をでられますよ」
の掛け声とともに、
僕は問題用紙に解答を書き終わっていた。
「悪くはない」
手ごたえはそれなりにある。
この時点。
僕は気がついていないが、
この瞬間、
僕は片思いの織姫と結ばれていたんだ。
そのまま手をつなぎ、仲良く部屋を出ればいい。
ただ、ただ、それだけだった。
***
僕はマークシート用紙を手に取った。
問題を反芻しながら、問題用紙とマークシートを手に取ったんだ。
塗りつぶしながら1つ1つの想いを確かめていく作業。
そこでふと手が止まった。
脳裏に浮かんだのは、2月の誕生日にまっさらなテキストを開いたあの日の自分だ。
あれから何度も読み直したテキストは、今はもう、たくさんの折り目がついてバッグの中にしまってある。
たくさんの時間を捧げてきた。
「信じるんだ。ちゃんと覚えてきただろ?
これで合格できるはずだ」
…
僕は立ち止まってしまった。
織姫の気持ち(正答)は今更変わることはない。
でも、
でも僕は、
5ヵ月夢見たこの瞬間を
信じることができなかった。
「もしかしてこっちかな?」
疑い始めた僕は、自分をとめられなかった。
3つ4つと回答を変えては消しては書き直してみる。
一緒に勉強をした自習室の勉強仲間の声がよみがえってくる。
「最初に”これだ”思った答えって、やっぱり覚えてたやつなんだよね」
「変えたら間違えるよ、ほんとに」
「俺は前回、それで落ちました」
「自分を信じて」
そう。
その言葉も思い出していた。
でも迷っているうちに時間も過ぎて…
試験時間は16時まで。
もう残り20分を切っていて、まだ全てマークシートを塗りつぶしていない。
「一回飛ばして他の問題からマークシートを塗りつぶそうか…」
「いやでも、それやったらマークシートを間違える元になるんじゃないか…」
そして僕は、心変わりをした回答のまま、時間を終えてしまった。
(どうして信じられなかったの?本当はもう十分だったのにね…)
そんな声が聞こえたような気がした。
夢見た未来が、僕の手からすり抜けた瞬間だった。
なにも知らない僕は、密かに自信があった。
3問、4問と書き直した。
でも、2択まで絞れている問題が22問もある。確率が50%だとしたら半分は正解しているはずだ。
だから、だから
なんとか次のステップに進めるのではないか?
今考えると、織姫に出会えた高揚感と楽しさで、冷静さを欠いていたのかもしれない。
7月14日。愛知県に帰宅途中。
新幹線の車窓に映った僕は、少しだけ顔を伏せていた。
だんだんと空は晴れてきているのに、心の中はまだ、少し、不安で雨が残っているみたいだ。
いつ正式回答をみようか…
ドキドキと不安が入り混じってスマホに目を向けた。
東京の雨とは打って変わって、やや暑いくらい愛知県。
明るい部屋に戻った僕…
そこで思わぬ別れを告げられることになる。
(あなたが心変わりしなかったら、私達、次のステップに進めたのにね。)
そう言われているようだった。
「え?まじかよ…ちょ、ちょっと待ってよ!ねぇ!」
昨日、マークシートを塗りつぶした右手で、スマホの画面を何度もタップしてみる。
幻想にみた織姫はやがて
気がつけば、ただの1から4の数字の羅列になっている。
そうなんだ。
僕は気がついた。
織姫の手を離してしまったのは、紛れもない僕の方だったんだ。
信じられなかった。
いままでの自分を。
信じたくなかった。
この日の別れを。
前祝いで鰻を食べたことも、「明日は1級やっつけてくるぜ!」って宣言したことも
あ”あ”あ”ぁぁぁーーー!
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしいぃ!
なんでこんなことに!
どれだけ現実から目を離してみても
点数は変わらない。
変わっていたのは、愛知県の空からも雨が落ちてきたことくらい。
コンビニスイーツを買いに出かける計画も
DMをするハズだった喜びのシナリオも
ぜんぶ無駄。
あー…全部ムダなんだ。
なにもしてなかった期間もあったくせに
他の検定に浮気してたくせに
言い訳ばっかだったくせに
悔しい気持ちだけは一人前だ。
***
次のチャンスは12月14日。
少し早めのクリスマス。
君は逃げも隠れもしないけど、今度は自分に自信がもてるようになって、君を迎えにいく。
今度こそ主人公になろう。
*****
世界遺産検定1級—
たかが趣味の試験のひとつである。だけど5ヵ月間の”恋”だった。
Fin.
5ヵ月間、私のことを見ていてくれてありがとう。
開いたページのひとつひとつ。
書き込んだメモ。ぜったいに無駄じゃないから。
私はいつもここにいるから。
あなたが諦めない限り、私はいつも手を差し伸べてここにいるから。
―――織姫より
…ちなみに、気になる点数は「134点」です。
200点満点中、合格ラインが140点のところ ”6点足りずに不合格” でした。
合格のために尽力してくださった皆様。ありがとうございます。
期待に応えられず申し訳ありません。
未来に ”絶対” はないけれど、次こそは自信をもてる自分になって挑戦したいと思います!
