【世界遺産検定】勉強時間の目安という罠について
この話は、12月の世界遺産検定を受けるにあたり、勉強時間について考えていたときの話です。
”勉強時間”って、どこまでを勉強といえるのだろう?
ただ机に向かってるだけ
テキストに折り目をつけてるだけ
これって本当に勉強って言えるのかな?
今日はオンラインで検定の振り返りがあったので、「これは勉強に入るのかな?」と考えたところから、僕はふとnoteを開き始めた。
僕は気持ちを新たに12月に向けて世界遺産検定の勉強を始めた。
ある程度は定量的に記録した方が良い。
止まってしまいそうなときに
「リベルタ勉強やってないな」とか、
僕自身も
「これだけやってきた」とか
自他共に客観的に評価ができるからだ。
だから日々の勉強時間を今週からnoteに記録し始めたのだが…
でもどうだろう?
仕事で考えれば「売上があがる作業」が仕事である。
ところが、世界遺産は趣味である。
いま仮に定義付けるとしたら、
「試験に合格するために費やした時間」が勉強時間なのだが⋯
今日の検定の振り返りはどうだろう?
オンラインで繋がって、世界遺産の検定内容を振り返るのは試験にも役に立つけど、そもそもが楽しいから話したいのだ。(僕はテキストばかりではあったけど…)
同じ試験を受けてきた戦友と共感したいのだ。
もちろん1級には合格したいし、発信したいことが明確になってくればマイスターにも挑戦したい。
でも試験のための勉強時間って考えると、それって短期的な通過点なんだよな。とも思う。
偉そうに資格を語る前に、
早く合格しろよって自分でも思ってる。(内緒だよ)
資格は手段であり、案内板のようなものだと思う。
目的地にいくために使う車であったりカーナビのような存在。
で、結局そのツールを使ってお前はどうしたいの?
そう自分を振り返る。
そこまで深く考えられて、堂々と胸を張って「自分はこうなりたい」と言えるだけのものが今はないけれど、
それでも、
いま走ってるこの道は
景色が良くて気持ちがいい。
数年前までは、素足で血まみれになりながら樹海を彷徨っていたんだ。
だから、今はこれで充分じゃないかな?
そんな風に思う。
***
さてと、
そろそろタイトルを回収したいと思う。
勉強時間の罠についてだ。
僕は思うんだけど、車で走った時間は有意義だし否定するものではない。
でもだからといって、すべてが勉強時間かといえばそうではない。
では何をもって勉強時間といえるのか?
それは、車で走ってる景色の中で、
発見があったことや思い出したことがあれば、それは勉強時間なんじゃないか?って話だ。
ただただ試験のためだけに詰め込んでいるのでは、試験が終わって空っぽになったら虚しくなるよ。
それにテキストを広げて別のことを考えてることない?
あの頃の僕みたいに、やった気になってるだけ。
それは目的のルートから脱線して時間を浪費してるだけのトイレ休憩だよね。
ずっと走り続けることはできないからトイレ休憩も大事なのはわかってるし、そこしか発見できないこともあるかもしれないけど、勉強時間にはカウントできない。
トイレの回数が多くて、時に休憩がメインになってしまった経験がある。
ちょっと昼寝が、気がついたらガチ寝してた。みたいなものだ。
だから、勉強を何時間やったか?というのは、すごく曖昧で、自分の主観次第なんじゃないかと思うんだ。
スッキリ分けられればいいんだけどね。なかなかできないんだけど、勉強が絶景を見に行くための準備運動だと思えば、少しは見え方が違ってくるんじゃないかな?
世界遺産は顕著で普遍的価値だ。
そして今日もたったの数個だけれども、新しく、深く、勉強ができた。
それだけのこと。
だけど僕は、少し満たされた。
勉強対象は不変であっても、自分次第でどこまでも行ける。
試験には受かりたい。
本当は悔しすぎてなりふり構っていられない。
でもあえてキレイ事をいうのなら、走りたい時に、走りたい相手と絶景を見にゆく。
そんな時間が、
勉強時間であっても良いのではないだろうか?
耳を澄ますと遠くから風を切る音が聞こえる。
今日も誰かが、自分の道をみつけたのかもしれない。
Fin.
