映画『マトリックス』のメタファー(暗喩) パワハラの由来その1 「投影」としての世界
パワハラで、「病む人」と「病まない人」の違い
世の中には、ひどいパワハラ上司というのがおり、それはそれで問題なのですが、その部下になった人すべてが、メンタルを病むわけというわけではありません。
病む人もいれば、平気な人(病まない人)もいるのです。この違いについて、この記事(と続きの記事)では、解説していきたいと思います。
ところで、現代の人間社会は、大人の中でも「いじめ社会」であることを、別の記事では解説しました。
人間社会は、つねに攻撃のターゲットを探しているのです。
そのため、私たちは、いつなんどき、理不尽な形で、攻撃にさらされるかわからない状況にあります。
そのため、以下に述べるような、人間の心理構造によく通じておき、人格の統合を進めておくと大変良いのです。
ところで、以前、別の記事で、映画『マトリックス』シリーズを素材に、私たちの生きて見ている世界が、通常信じられているほど、「本当のリアルな世界」ではないことについて解説しました。
私たちは、生育歴の中で、埋め込まれた「信念」によって、心身のすべてががんじがらめに拘束され、その結果としてフィルタリングされた世界を、「現実」として見ているということです。
フィルタリングされ、貧弱にされた、カスカスの「出涸らしのような世界」です。
そのような世界に、真の生命力に溢れた現実はないのです。
そのため、映画『マトリックス』が描く世界像(世界の構造)は、決してフィクションというわけではなく、むしろ、実際の状況そのものということなのです。
さて、ここでは、もう一歩さらに進んで、一般には、本当の意味で理解されていない(理解できない)、「投影 projection」という現象について解説していきたいと思います。
別の記事では、精神分析のフロイトや、その系列の心理学的知見を引用して、私たちの心理的構造について、色々と解説しました。
そこでは、私たちの「自信が持てない」「自信がない」という感情は、能力とは関係なく、自分の心理的人格的要素としての「超自我 super ego 」が、「お前はできていない」「お前はダメだ」「お前には価値がない」というメッセージを出し続けるから、そのような感情や気分になるということを解説しました。
この「超自我 super ego 」とは、私たちは、幼少期の頃、親から取り込み、内部で人格化した「内なる他者」です。
幼少期に理想化した価値観や感情が、その淵源にあるので、意識の上で同一化されている要素もありますが、基本、無意識(潜在意識)の感情(欲求)として、私たちを背後から「操っている」のです。
「超自我 super ego 」を、交流分析(TA)では、「保護的な親」と「批判的な親」に分けましたが、「批判的な親」の要素を普遍化して、キャラ立てを強くしたのが、ゲシュタルト療法でいう「トップドッグ(ボス犬)」です。
これが、いつも、私たちにガミガミと、「お前はできない」「お前は足りない」「お前はダメだ」「お前には価値がない」「いつもお前が悪い」「お前は恥ずかしいやつ」「お前は生きていてもしょうがない」などの否定的なメッセージを言ってくるのです。
当然、個人によって、その激しさの強度は多様です。
それを言われる(責められる)側を、ゲシュタルト療法では、「アンダードッグ(負け犬)」と呼びますが、アンダードッグ(負け犬)は、トップドッグ(ボス犬)に責められると、
「私はできない」「私は足りない」「私はダメだ」「私には価値がない」「いつも私が悪い」「私は恥ずかしいやつ」「私は生きていてもしょうがない」と感じることになるのです。
交流分析(TA)でいう「順応した子ども」「インナーチャイルド」です。
さて、私たちの意識は、トップドッグ(ボス犬)とアンダードッグ(負け犬)の両方に同一化します。
そして、その時その時で、その占有比は変わり、どちらかの感情に強く同一化し、憑りつかれ、憑依され、その感情そのものになってしまいます。
人が、落ち込んでいるときは、アンダードッグ(負け犬)に同一化しています。
人を責めているときは、トップドッグ(ボス犬)に同一化しています。
また、通常の個人は、どちらかに多く占有されている傾向を持っています。
そのため、私たちが、通常、単一の感情と見なしている「罪悪感」「自責感」「羞恥心」「無価値観」などの感情は、決して単体の感情ではないのです。
どれも皆、深い次元では分裂と葛藤によって起こっている「ダイナミックな感情」ということなのです。
これら複合的な感情を、単一の感情と見なす、現代の凡庸な心理学や社会的通念が、決して、これらの感情を取り去ることができないのは、その洞察力の根本的な欠落に拠るものなのです。
そのため、これらの感情を取り去るには、静的なアプローチではなく、それらを構成している感情エネルギーを、深部からダイナミックに解放しないかぎり、決してなくならないのです。
本人も、凡庸な社会的通念を超えて、そのことを理解しないといけないのです。
また、セラピスト側も、本やネットの情報などの凡庸な学説、他人の噂話などの薄っぺらなものではなく、心をあつかう実践現場で、数多くの人々の感情的変容をまじかで見て、その構造を実感していなければ、決して理解できないことなのです。
しかし、(一般の人々には、イメージがつかないかもしれませんが)本当に心の深い領域があつかわれる現代セラピーなどは、残念ながら、実際にはほとんど存在していないのです。
そのため、そういうことがわかっている人も、ほとんどいないという事態になってしまっているのです。
さて、次回、「パワハラの由来その2」では、上のような構造を前提に、「パワハラで病む人の構造」を見ていきたいと思います。
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