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北センチネル島とは?|地図にあるのに、近づけない、近づいてはいけない場所

成島です。@freeowner171 

ここしばらく、
かなり変な方向へ知的散歩をしていました。

最初はWBCのキューバ代表でした。

ジャリエル・ロドリゲスの名前を見て、

「亡命したはずなのに、キューバ代表になれるのか?」

と思ったところから始まりました。

そこから、亡命と難民認定の違いを調べました。

キューバ野球を調べました。
カリブの野球史を調べました。
社会主義国の比較まで行きました。

さらに、台湾、西サハラ、コソボ、
パレスチナ、プエルトリコ、香港、
グリーンランド、北方領土のような、

「国なのか」
「地域なのか」
「まだ決まりきっていない場所なのか」

という地図のあいまいな部分まで眺めてきました。

そして最後に、ここへ来ました。

北センチネル島。

地図にはある。

でも、近づいてはいけない場所。

今回の一連のシリーズの最後として、
この島について書いてみたいと思います。

北センチネル島は、未承認国家ではありません。

係争地という話でもありません。

国なのか地域なのか、
というテーマとも少し違います。

地理的、法的な位置づけで言えば、
インド領アンダマン諸島にある島です。

ただ、実態としては、
インドの保護政策下にある
先住民居住地として見るのが近いと思います。

そこには、外部社会との接触を
強く拒んできたセンチネル人が暮らしています。

だから北センチネル島を見るときに大事なのは、

「どこの国なのか」

だけではありません。

むしろ、

「近づけるから、近づいていいのか」
「知りたいから、知っていいのか」
「地図に載っている場所は、すべてこちら側の知識で埋めていいのか」

という問いになっていきます。

今回は、そんな北センチネル島の話です。


北センチネル島とはどこにある島なのか

北センチネル島は、
インド洋のアンダマン諸島にある島です。

行政上はインドに属しています。

地図で見ると、ちゃんと島があります。
海の中に浮かぶ小さな島。

衛星写真でも確認できます。
場所もわかります。

現代の技術を使えば、
かなり細かく見えてしまう。

でも、
ここで一度立ち止まる必要があります。

見えることと、行っていいことは違います。

北センチネル島は、
外部からの接近が厳しく制限されている島です。

理由は大きく二つあります。

ひとつは、
そこに暮らすセンチネル人が、
外部との接触を強く拒んできたこと。

もうひとつは、
外部社会との接触そのものが、
彼らにとって命に関わる危険になり得ることです

特に大きいのが、病原体の問題です。

外部社会の人間が持ち込む病気は、
免疫を持たない集団にとって
致命的になる可能性があります。

こちらにとっては軽い風邪のようなものでも、
相手にとっては共同体全体を
揺るがすものになるかもしれない。

これは、
先住民社会の歴史を考えるうえで
避けて通れない問題です。

地図に載っている。
場所がわかる。

船を出せば近づける。
衛星からも見える。

でも、それでも行ってはいけない場所がある。

この感覚は、かなり大事だと思います。

現代は、何でもアクセスできることが
良いことのように語られます。

行ける場所が増える。

見られる映像が増える。

検索すれば情報が出る。

SNSには現地の写真や動画が流れてくる。

でも世界には、

「見えるけれど、踏み込まない」

という距離感が必要な場所があります。

北センチネル島は、その象徴のように見えます。


センチネル人は「過去の人」ではない

北センチネル島の話をするとき、
気をつけたい表現があります。

それは、

「石器時代の人」
「未開の部族」
「文明から取り残された人」

といった言い方です。

こういう表現は、
かなり危ないと思います。

なぜなら、センチネル人は
過去の人ではないからです。

現代に生きている人たちです。

僕たちと同じ時間を生きている。

ただ、外部社会とは違う形で生きている。

海を知っている。
森を知っている。
島の環境に適応している。
自分たちの社会を持っている。

外から来る人間に対して、
強い拒否の姿勢を示している。

それを「遅れている」と見るのは、
かなり一方的です。

むしろ、外部との接触を拒むことは、
生存戦略として理解できる面があります。

外から来る人間は、
病原体を持ち込むかもしれない。

土地や生活圏を脅かすかもしれない。

宗教や価値観を
押しつけるかもしれない。

写真を撮り、
珍しいものとして消費するかもしれない。

観光地化しようとするかもしれない。

過去の歴史を見れば、
先住民社会が外部との接触によって
壊されてきた例は少なくありません。

だから、
センチネル人が接触を拒むことを、

「外の世界を知らないから」

とだけ見るのは浅い気がします。

もちろん、彼らが何を考え、
何を理由に外部との接触を拒んでいるのかを、
こちら側が断定することはできません。

僕たちは、彼らの言葉も
社会の内側もほとんど知りません。

だからこそ、想像で決めつけない方がいい。

少なくとも、

「こちらの文明が上で、向こうが遅れている」

という見方は、かなり雑です。

北センチネル島を考えるとき、
まず捨てないといけないのは、
この優越感なのかもしれません。


北センチネル島になぜ行けないのか

北センチネル島になぜ行けないのか。

この問いに対する答えは、
単に「危ないから」ではありません。

もちろん、外部から近づいた人間に対して、
センチネル人が矢を放ったという話は知られています。

浜辺に近づく船を警戒する。
近づく人間を追い払う。
外部接触を拒む。

そうした反応が記録されてきました。

でも、それをただ、

「攻撃的な人たちがいる島」

という話にしてしまうと、
大事な部分を見落とします。

彼らから見れば、
近づいてくる外部の人間こそが
侵入者かもしれません。

その人間が病気を持ち込むかもしれない。

自分たちの土地を奪うかもしれない。

生活を壊すかもしれない。

信仰や価値観を押しつけてくるかもしれない。

そう考えると、
接触を拒むことは単なる閉鎖性ではなく、
防衛に近いものとして見えてきます。

北センチネル島が孤立に近い状態を
保ってきた理由はいくつかあります。

まず、島そのものが近づきにくい。

周囲にはサンゴ礁があり、
海の条件も簡単ではありません。

大型船で気軽に
上陸できるような場所ではない。

次に、センチネル人自身が
外部との接触を拒み続けてきた。

これが大きいです。

彼らはただ
「見つからなかった人たち」ではありません。

自分たちの島を守ってきた人たちでもある。

そして現在は、
インド政府も外部からの接触を
厳しく制限する保護政策を取っています。

ここが重要です。

昔の探検や植民地時代の感覚なら、

「未知の島に行ってみたい」
「調査したい」
「文明化したい」

という発想になったのかもしれません。

でも、今は違います。

近づかないことが保護になる。

接触しないことが尊重になる。

北センチネル島は、
その考え方をはっきり示している場所だと思います。


人口すらはっきりわからない島

北センチネル島について調べると、
人口の話も出てきます。

ただ、ここもかなり不確かです。

センチネル人が何人いるのかは、
正確にはわかっていません。

推定には幅があります。

そもそも、外部から詳細な
調査をすること自体が制限されているため、
人口を断定するのは難しい。

ここが他の地域と大きく違うところです。

普通、ある地域について調べると、
人口統計が出てきます。

何人住んでいる。
どんな産業がある。
学校がある。
病院がある。
道路がある。
行政区分がある。

でも北センチネル島では、
そのような一般的な統計感覚が通用しにくい。

人口すら、幅のある推定になる。

暮らしの細部もわからない。

言語も、外部からは十分に解明されていない。

つまり、ここには大きな空白があります。

でも、その空白を無理に
埋めようとすること自体が、
危険につながる。

これが北センチネル島の難しさです。

現代人は、
空白を見ると埋めたくなります。

わからないことがあると調べたくなる。
見えない場所があると撮影したくなる。
未解明のものがあると解明したくなる。

でも、すべての空白が、
埋めるべき空白とは限りません。

残しておくべき空白もある。

北センチネル島は、
そのことを教えてくれる場所なのだと思います。


「知りたい」はいつも正しいわけではない

正直に言うと、北センチネル島には
好奇心を刺激されます。

どんな暮らしをしているのか。

どんな言葉を話しているのか。

何人くらいいるのか。

どんな神話や家族制度があるのか。

外の世界をどう認識しているのか。

知りたくなる。

これは自然な感情だと思います。

僕も、調べながら何度もそう思いました。

でも、ここで重要なのは、

知りたいからといって、
知る権利があるわけではない

ということです。

これは、かなり重いです。

現代人は情報に慣れすぎています。

検索すれば出る。
動画で見られる。
誰かが潜入する。
誰かが撮影する。
ドキュメンタリーになる。
再生数がつく。

でも、相手が望んでいないなら、
その好奇心は暴力になることがあります。

北センチネル島は、そこを突いてきます。

知識欲。探検欲。取材欲。
宗教的使命感。観光欲。SNS映え。

こういうものが、
全部きれいな顔をして近づいてくる。

でも、島の側から見れば、
それは侵入かもしれない。

病気を持ち込む危険かもしれない。

共同体を壊す入り口かもしれない。

そう考えると、

「知ることは善」
という単純な考え方も、少し揺らぎます。

知らないままにしておくこと。
距離を置くこと。関わらないこと。

それが一番倫理的な場合もある。

これは、今回のシリーズの最後に
ふさわしいテーマだなと思いました。

ずっと地図を見てきた。

国境を見てきた。

未承認地域を見てきた。

でも最後に出てきたのは、

「地図にあるからといって、踏み込んでいいわけではない」

という話でした。


2018年の事件が突きつけたもの

北センチネル島の話をするとき、
避けて通れない出来事があります。

2018年、アメリカ人宣教師の
ジョン・アレン・チャウ氏が
北センチネル島に接近し、死亡した事件です。

この事件は世界的に報じられました。

彼はキリスト教の布教を
目的に島へ向かったとされています。

しかし、北センチネル島への接近は
制限されていました。

そして、センチネル人は
外部との接触を拒んできた人々です。

この事件は、
かなり重い問いを残しました。

信仰があれば、
相手の拒否を越えていいのか。

善意があれば、
相手の領域に入っていいのか。

助けたいと思っていれば、
相手の意思を無視していいのか。

これは宗教だけの話ではありません。

取材でも同じです。
研究でも同じです。
観光でも同じです。
SNSでも同じです。

「自分は良いことをしている」
「自分は知りたいだけだ」
「自分は記録したいだけだ」
「自分は助けたいだけだ」

そう思っていても、
相手にとっては侵入かもしれない。

この事件は、北センチネル島の
存在を世界に知らせました。

でも同時に、外部社会の側の
傲慢さも映し出したと思います。

僕たちは、相手の拒否を
どこまで本気で受け止められるのか。

ここが問われています。


他のアンダマン先住民を見ると、接触の重さがわかる

北センチネル島だけを見ると、
あまりにも特殊に見えます。

でも、アンダマン諸島には
他にも先住民の歴史があります。

ジャラワ。オンゲ。
グレート・アンダマニーズ。

こうした人々の歴史を見ると、
外部社会との接触が
何をもたらすのかが少し見えてきます。

外部社会と接触する。
病気が入る。
土地が奪われる。
生活様式が変わる。
人口が減る。
依存が生まれる。
観光や見世物の対象にされる。

もちろん、
すべてを一言でまとめることはできません。

各集団ごとに歴史も状況も違います。

でも共通して言えるのは、

外部社会との接触は、
先住民社会にとって巨大な衝撃になり得る

ということです。

僕たちは、
接触という言葉を軽く使いがちです。

交流。支援。調査。保護。文明化。

でも、
外から入る側の言葉は、
たいていきれいです。

入られる側から見ると、
それはまったく違う顔をしているかもしれません。

北センチネル島が接触を拒み続けていることは、
周辺の歴史を見ても、
かなり重い意味を持っているように感じます。

それは単なる閉鎖性というより、
防衛に近い。

拒絶というより、
生存のための距離感に見える。

外部を知らないからではなく、
外部との接触が危険になり得るから距離を取る。

そういう見方をした方が、
現実に近いのかもしれません。


北センチネル島から出て暮らす人はいるのか

調べていて、
少し気になったことがあります。

北センチネル島から外に出て暮らしている人はいるのか。

公開情報の範囲では、
センチネル人が島を出て外部社会で
定住している事例は、一般的には確認されていないようです。

ここは、言い方に注意が必要です。

完全に存在しないと断定するというより、

「少なくとも公開されている一般的な情報の範囲では確認されていない」

という言い方が近いと思います。

過去には、外部の人間が接触したり、
連れ出しに近い出来事があったりした歴史はあります。

でも、現在どこかの街で
センチネル人が暮らしている、という話は、
一般に確認されている情報としては見つけにくい。

ここにも、北センチネル島の特殊さがあります。

多くの地域では、
外部との接触が進めば、
人の移動も起きます。

街へ出る。学校へ行く。仕事をする。
結婚する。言語が変わる。
宗教が変わる。生活が混ざる。

でも北センチネル島では、
そういう流れがほとんど見えない。

島としての閉じた世界が、
かなり強く維持されているように見えます。

ただし、それをロマンチックに見すぎるのも危険です。

「手つかずの楽園」みたいに言うのも違う。

そこには、
僕たちが知らない現実の暮らしがあります。

苦労もあるはずです。
病気もあるかもしれない。
争いもあるかもしれない。
食べ物の問題もあるかもしれない。

でも、知らないからといって
勝手に美化するのも違う。

勝手に遅れていると見下すのも違う。

北センチネル島に対して
僕たちができる一番まともな態度は、

「わからないことを、わからないまま尊重する」

なのかもしれません。


近づかないことが保護になる

保護という言葉を聞くと、
何かをしてあげることを想像します。

食べ物を届ける。
医療を届ける。
教育を届ける。
インフラを届ける。
支援を届ける。

もちろん、
そういう保護が必要な場面もあります。

でも、北センチネル島の場合は違います。

近づかないことが保護になる。
接触しないことが支援になる。
観察しすぎないことが尊重になる。

この反転が面白いです。

僕たちは、
つい「関わること」を善だと思いがちです。

無関心はよくない。
支援すべきだ。
つながるべきだ。
開かれるべきだ。

でも、相手がつながることを
望んでいない場合はどうか。

開かれることで壊れる社会が
あるとしたらどうか。

関わらない方が
守れる命があるとしたらどうか。

北センチネル島は、
その問いを突きつけてきます。

関わらない勇気。

踏み込まない倫理。

知らないままにしておく尊重。

こういうものが、
現代にはかなり足りないのかもしれません。


地図の最後に、空白を残す

今回のシリーズは、
ずっと地図を見てきた感覚があります。

キューバから始まりました。

カリブ海を見ました。

社会主義国を見ました。

未承認地域や自治領を見ました。

国境線を見ました。

点線を見ました。

白く塗られた場所を見ました。

そして最後に、北センチネル島です。

ここは、地図上では空白ではありません。
ちゃんと島として存在している。

所属もインド領として説明できる。
インドの保護政策下にある
先住民居住地として位置づけることもできる。

でも、僕たちの知識の中では
大きな空白が残っています。

彼らの言葉を知らない。
社会の細部を知らない。

歴史の内側を知らない。
何を考えているのか知らない。

どんな暮らしをしているのかも、
外部からは限られたことしかわからない。

人数すら、正確にはわからない。

でも、その空白を無理に埋めなくていい。

むしろ、埋めようとしない方がいい。

これが、北センチネル島の
いちばん大きな教えなのかもしれません。

現代は、空白を嫌います。

不明点があると調べる。

見えない場所は撮影する。

未解明のものは解明する。

アクセスできない場所には
アクセスしたくなる。

でも、すべての空白が、
埋めるべき空白とは限りません。

残しておくべき空白もある。

その場所に暮らす人たちが、
自分たちの世界を守るための空白。

外部社会が踏み込まないことで守られる空白。

北センチネル島は、
地図上の島というより、

「人間の好奇心が止まるべき線」

として見た方がいいのかもしれません。


FAQ

北センチネル島はどこの国にありますか?

北センチネル島は、行政上はインド領アンダマン諸島にある島です。ただし、そこには外部社会との接触を強く拒んできたセンチネル人が暮らしており、一般的な観光地や居住地とはまったく違う扱いをされています。


北センチネル島になぜ行ってはいけないのですか?

大きな理由は、センチネル人が外部との接触を拒んでいることと、外部から持ち込まれる病原体が彼らにとって命に関わる危険になり得ることです。近づかないことが、彼らの社会を守ることにつながると考えられています。


センチネル人は未接触部族なのですか?

完全に外部との接点がゼロだったわけではありませんが、現在も外部社会との継続的な接触を拒んできた人々として知られています。ただし、「未開」や「遅れている」という見方は適切ではありません。彼らは現代に生きる人たちであり、外部社会とは違う形で自分たちの暮らしを続けています。


雑記としての着地点

ここまで書いてきて、
なんだか変な気持ちになっています。

最初は野球だったんです。

WBCのキューバ代表。

そこから亡命の話になり、
キューバの社会主義になり、
カリブの野球史になり、
社会主義国比較になり、
未承認地域の地図になり、
最後に北センチネル島まで来ました。

遠すぎる。

でも、全部つながっている気もします。

最初の違和感は、

「言葉が合っていない気がする」

でした。

亡命という言葉。
代表という言葉。
国という言葉。
社会主義という言葉。
未承認地域という言葉。
文明という言葉。
保護という言葉。

どれも便利だけど、
雑に使うと現実をこぼす。

北センチネル島についても同じです。

未開。孤立。未接触。
文明。保護。接触。

どの言葉も、使い方を間違えると
相手を小さくしてしまう。

だから今回、僕が一番残したいのは、

「わからないものを、わからないまま粗末にしない」

という感覚です。

わからないから見下すのではない。
わからないから暴くのでもない。

わからないからこそ、距離を置く。
わからないまま、存在を認める。

これは、地図を見るときにも、
人を見るときにも、
かなり大事な態度だと思います。

北センチネル島は、
地図にあるのに近づいてはいけない場所です。

でも、それは「怖い島」だからではありません。

そこに、こちらが踏み込んでは
いけない暮らしがあるからです。

そして、こちらの好奇心よりも、
そこに住む人たちの生存の方が重いからです。

今回のシリーズの最後に、
この場所へ来てよかった気がします。

地図は世界を見せてくれる。

でも、地図に載ったすべてを
自分のものにしていいわけではない。

知ることより、
踏み込まないことが大事な場所もある。

北センチネル島は、
そのことを静かに教えてくれる島だと思います。


調べてみてよかった切り口

最後に、今回のメモとして
使えそうな見方を置いておきます。


ひとつ目。

北センチネル島は、
未承認国家でも係争地でもなく、
インド領アンダマン諸島の島として見る。

より実態に近く言うなら、
インドの保護政策下にある先住民居住地です。

ただし、そこに暮らすセンチネル人が
外部接触を拒んでいるため、
単なる地理情報だけでは理解できません。


ふたつ目。

「未接触」や「孤立」という言葉を、
遅れの意味で使わない。

センチネル人は過去の人ではなく、
現代に生きる人たちです。

外部接触を拒むことは、遅れではなく、
生存戦略として理解できる面があります。


みっつ目。

センチネル人の人数は不確かで、
推定には幅がある。

人口を断定できないこと自体が、
この島の特殊さを示しています。

わからない部分を
無理に埋めないことも大事です。


よっつ目。

接触しないことが保護になる場合がある。

支援、調査、布教、観光、取材。

どんな動機であっても、
相手が望んでいない接触は暴力になり得ます。


いつつ目。

外部病原体のリスクを軽く見ない。

外部社会にとって軽い病気でも、
免疫のない集団には
致命的になる可能性があります。

だから、近づかないことには
現実的な意味があります。


むっつ目。

地図にある場所を、
すべて自分たちの知識で埋めようとしない。

世界には、残しておくべき空白もある。

北センチネル島は、
その空白の意味を教えてくれる場所です。


これで、この一連の
記事シリーズはいったん終わりです。

野球から始まって、
ずいぶん遠くまで来ました。

でも、振り返ると
ずっと同じことを考えていた気がします。

言葉を雑に使わないこと。

地図を雑に見ないこと。

人の暮らしを、
こちら側の物差しだけで測らないこと。

また変な方向へ散歩したくなったら、
続きを書きます。

この記事を書いたことで、
普段は出会えない読者の目に
止まっていたら、嬉しいです。


追伸:僕の謎リサーチ癖について

最後に、少しだけ追伸です。

僕は子どもの頃から、
なぜかいろんな雑学を
派生的に調べる習慣がありました。

ひとつ気になることがあると、
そこから別の言葉に飛び、
また別の歴史に飛び、

気づいたら最初に調べていたものとは
まったく違う場所にいる。

そんなことを、わりと昔からやっていました。

だから、10代の頃も20代の頃も、

「歩く図書館」

みたいに言われたことがあります。

ウィキペディアのリンクを
延々とたどっていくのも好きでした。

ひとつの記事を読んでいたはずなのに、
気づけば別タブが大量に開いていて、
国名、歴史、人物、宗教、事件、制度、地理
みたいなところをぐるぐる回っている。

あの感じが、
けっこう好きだったんですよね。

自分では、
わりと無趣味な方だと思っていました。

でも、もしかしたら、
これが趣味なのかもしれません。

今は、ウィキペディアからさらに進んで、
AIに聞けば知識はいくらでも
手に入る時代になりました。

わからないことを聞けば、
すぐに答えが返ってくる。

関連する話も広げられる。

知らなかった言葉にも
一瞬でたどり着ける。

ただ、それでもAIに
「問い」を投げかけるのは人間です。

何を不思議に思うのか。

どこで引っかかるのか。

どの言葉から、次にどの言葉へ飛ぶのか。

その問いの派生の仕方には、
たぶん無限に近いパターンがあります。

そして、そのパターンのユニークさこそが、
一人ひとりの個性になって
いくんじゃないかと思っています。

AI時代でも、差別化になるのは
知識量そのものではなく、

「どんな問いを立てる人なのか」
「何と何をつなげて考える人なのか」
「どの順番で世界を見に行く人なのか」

なのかもしれません。

僕は普段、コンテンツビジネスや
DRMについて教えることが多いです。

だからこそ、

「この人は、普段どういう頭の中で考えているのか」
「どういうインプットをしているのか」
「何を見て、何を面白がっているのか」

そこが気になる人も、
全世界に74人くらいは
いるんじゃないかと思いました。

なので今回は、普段よく投稿している
コンテンツビジネスやDRMではないテーマを、
珍しく一連のシリーズもののような形で書いてみました。

キューバ野球から始まって、
亡命、社会主義、カリブ、未承認地域、
そして北センチネル島。

我ながら、どこまで行くんだという感じです。

でも、こういう知的散歩の中にこそ、
自分の思考のクセが出るのかもしれません。

ちなみに、まだ他人に見せたことがない、

「何の役に立つかわからない謎リサーチのメモ」

は、実は大量にストックされています。

本当に何の役に立つのかわからないものもあります。

でも、今回みたいな記事にしてみると、
意外と誰かの知的好奇心に
引っかかることもあるのかもしれません。

反響があれば、
またどこかで公開する日が来るかもしれません。

ビュー、スキ、コメント、
フォローなどの反響によってはね。


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