女が消えたフェミニズム──『とびこえる教室』で起こるフェミニズムの盗用と危険性|フェミニズムについて語ろうじゃないか
女が消えたフェミニズム
──書籍『とびこえる教室 フェミニズムと出会った僕が子どもたちと考えた[ふつう]』で起こるフェミニズムの盗用と危険性
わたしはフェミニズムについて普段から関心があるので、ネットの海の中である日、星野俊樹さん著作の『とびこえる教室 フェミニズムと出会った僕が子どもたちと考えた[ふつう]』を見かけた。
どうやら話題の作品のようだ。柔らかくて読みやすそうなタイトルに惹かれつつ、”僕”と名乗る男性がフェミニズムをどのように語るのだろう?という興味もあって、気軽な気持ちで手に取った。

しかし読み進めるうちに、胸のうちがぎゅっと締め付けられるような違和感が育っていく。ページを捲るたび、心の内側が逆立つようなざわめきが広がっていった。読みやすい本であることは確かだったが、その違和感の正体を無視できず、休み休みでしか先へと進めなかった。
そのざわつきが何なのか、読み切った後で気がづいた。この本はタイトルに「フェミニズム」を掲げながら、女性が徹底的に不在のまま語られる、 “女性の声が消えたフェミニズム” だったのだ。
私はそこに強い危機感を覚えた。本書のすべてを否定する意図も、著者である星野俊樹さんを攻撃するつもりもない。むしろ、この違和感は構造的な問題として多くの読者と共有すべきだと思うからこそ、ここに記そうと思う。
この本はフェミニズムの盗用である
フェミニズムとはなにか。まずはそこに立ち返る必要がある。
フェミニズム : 女性に対する差別や不平等の解消を主張する考え方。男女同権論。女性解放論。
つまりフェミニズムとは女性が受けてきた歴史的な抑圧に対して「女性自身が」声を上げてきた運動である。それは19世紀末、女性の参政権を求める運動、1960年代のウーマンリブ、そして現代に続く性差別の可視化。
フェミニズムは「女性の権利を取り戻す」のための言葉であり、女性の痛みと歴史がその中心にある。
ところが『とびこえる教室』では、表紙に”フェミニズム”を掲げておきながら、その中心である女性がごっそりと抜け落ちている。
本書が終始語っていたのは、著者自身が感じた「男性としての生きづらさ」であり、ジェンダー規範による男性への抑圧や苦しみが中心であった。これらは確かに重要なテーマであり、語られるべき問題だ。しかしそれはフェミニズムではなく、マスキュリズム(有害な男性性の解体)やジェンダー教育の領域である。
にもかかわらず、本書はその語りを丸ごと「フェミニズム」に包括しようとする。ここに大きなズレが起きている。
本書に登場する実名のあるシス女性(身体/自認ともに女性)は、章と章の合間の短いダイアローグに登場する1名のみで、その語りもフェミニズムの中核である「女性としての痛み」「女性が受けてきた抑圧」にはほとんど触れられない。
つまり本書は、女性がほぼ登場しないまま、男性の物語を“フェミニズム”として流通させてしまっている。
これは“誤読”では済まされず、フェミニズムの中心から女性を消し去る暴力の再編であり、私はそこに大きな危険を感じた。
女性の歴史を消す「フェミニズムの拡大解釈」
昨今の日本では、包括的フェミニズムという言葉が使われ始め、耳心地の良い「みんなのためのフェミニズム」が求められがちな実情がある。
しかし、フェミニズムとは前述した通り、ウーマンリブ・第二波フェミニズム〜現代に至るまで、「女性たち自身」が声を上げ続けてきたものである。その系譜の中心にあったのは、常に「虐げられてきた女性の痛み」だ。
本書では、ベル・フックスの言葉を度々引用して、「フェミニズムはみんなのもの」であると主張する。
しかし、ベル・フックスは常に彼女の著書の中で、フェミニズムとは女性が中心でなければならないと、一貫して語っているのだ。
“Feminist politics always begins with the lives and experiences of women.”
(フェミニズムの政治はつねに女性の生活と経験から始まる)
"Men suffer, but it is not the same as the suffering of women under patriarchy.
Their pain must not eclipse women's experiences."
(男性は苦しむが、それは家父長制の下での女性の苦しみと同じではない。彼らの痛みが女性の経験を覆してはならない。)
また、日本においても、フェミニズムをテーマとした漫画を多く手がける滝波ユカリ氏が、日テレNEWSの中でこのように述べている。
みんなのためのフェミニズムというムードを求められるが、基礎の部分で女性が受けてきた抑圧があり、そこからの解放を訴えるのがフェミニズムです。みんなのものにしてしまうと、男の生きづらさもフェミニズムがなんとかしてくれる、すると女性がまたケアをすることになりますよね。
『上田と女がDEEPに吠える夜』で特集 フェミニズム大好き演出・前川
瞳美と漫画家の瀧波ユカリがまだ吠える【国際女性デー】
【Talk Gender~もっと話そう、ジェンダーのこと〜】
著者が参照するベル・フックスをはじめとして、少なくないフェミニストが、フェミニズムの中心は女性であり、男性(特権者)がフェミニズムの中で女性と同等に語ってはいけないと述べている。
しかし、本書ではフェミニズムを扱いながら、「女性の痛み,経験」について一度も触れられていない。
この書の中で、フェミニズムから「女性」の存在は、消えてしまっているのだ。
女性不在のまま「男性の語り」が中心化する危険性
このように本書では、フェミニズムという看板を掲げながら、その語りの中心は一貫して「男性の生きづらさ」に置かれている。もちろん、男性が家父長制の構造によって傷つくという指摘そのものは重要であり、議論すべき問題である。
しかし、その「男性の痛み」をフェミニズムの中心に据えて語って良いわけではない。ここを取り違えると何が起こるのか。
フェミニズムという場で男性が語るときに最も危険なのは、男性の語りは、女性の語りよりも「聞かれやすく、信じられやすい」位置に自動的に置かれてしまうという構造だ。これは著者個人の問題ではなく、もっと大きな社会的力によって起きる。
たとえば、
○男性の語り → 冷静・知的・客観的
○女性の語り → 感情的・主観的・偏っている
という、長年かけて積み上げられた評価の偏り。
この偏りそのものが、フェミニズムが戦ってきた家父長制の本丸であるのに、男性がフェミニズムの中心で語ると、そこがそのまま温存されてしまう。つまり、女性の抑圧を解放するための言語だったはずのフェミニズムが、男性が語った途端、「男性の痛みを包摂する優しいフィールド」へと変質してしまう。この構造が一番の問題なのだ。
実際 「語る資格」はこの問題の本質ではない。本質は「語ったときに発生する力の差」である。
著者は、「語る資格があるのか葛藤した」「誰が語れて、誰が語れないのかを考えた」と何度か触れている。しかし実際には、 「語る資格があるかどうか」ではなく、「語ったときに誰の声が中心化され、誰の声が押しのけられるのか」に焦点を当てなければならなかった。そこがフェミニズムがずっと向き合ってきた核心なのだ。男性が語るとき、その語りは女性の語りを押しのけやすい。この本はまさにその実例になってしまっている。
男性の痛みが語られるべき場所は、フェミニズムではない。
著者が語っているのは確かに重要な問題だし、男性が家父長制の中で感じる苦しさや矛盾は、絶対に”ないものとして”扱われてはいけない。でも、それは本来、マスキュリズムやジェンダー教育の領域で語られるべきテーマだ。
著者は本書の中で、自身のセクシュアリティに触れ、ゲイである自身を“語る当事者”の位置に置こうとする。しかし、フェミニズムにおける「当事者」は常に女性である。
これは排除ではなく、“役割の違い” だ。女性が歴史の中で奪われ続けてきた発言権や語る場を守るために必要な線引きであり、それを曖昧にした途端、女性の声はまたすぐに押し流されてしまうのだから。
そしてまさにこの本では、男性の痛みが語られた瞬間に、女性の痛みは完全に消えた。ここにこそ、大きな危険が潜んでいる。
ベル・フックスの言う「フェミニズムはみんなのもの」は、“女性の痛みを中心に据えたまま、そこから広げる”という意味であって、“女性が中心から外れていい”という意味では決してない。
この区別を踏み誤り、男性が自分たちのものにしてしまうことこそが、フェミニズムの盗用なのである。
マスキュリズムを叫べ
本書の著者が、赤裸々に真摯に語る、「家父長制による痛み」は、社会においてとても貴重な語りであると、わたしは考えている。
男性自身が、痛みや弱さに向き合って、男性社会や家父長制に異議を唱える言葉は、この日本でほんとうに少ない。その中で、著者である星野俊樹さんが、真っ向から向き合って言葉として書き残したことは、ほんとうに素晴らしい仕事だ。
しかし、これはここまで述べてきたように、フェミニズムの枠で語ってはいけなかった。フェミニズムとして語ることで、女性がこれまで築いてきた女性のための語りの場を奪ってしまうからである。
その中で著者が語る「痛み」とは、確実にマスキュリズムの領域だ。そのマスキュリズムとはなんだろうか。
マスキュリズムとは
マスキュリズムとは、男性に対する性差別を無くすための思想や運動のこと。男性への性差別の例として、「男性は一家の大黒柱として家族を養うべきだ」等、伝統的な男らしさに対する社会的期待が挙げられる。
男性差別の例
・男性が仕事をしてお金を稼ぐのが当たり前だ
・男性がリーダーシップを取るのが当たり前だ
・女性より収入が多い男性の方が好ましい
・男性は喧嘩をするものだ、男同士の喧嘩で多少の暴力は仕方がない
・兵役は男性のみに課されるべきだ
フェミニズムが女性への抑圧からの解放を訴える一方で、男性にも家父長制や社会的通念による抑圧が存在している。その男性への社会的抑圧からの解放運動として、「マスキュリズム」がある。
本書の中で、著者は男性として感じた苦しみ、痛みとしてこのように述べている。
弱音を吐くのは「男らしく」ないと思い込んでいたのかもしれませんが、そもそも言われた通りにやらなければ暴力をふるわれるような状況で、嫌だと言う選択肢があることすら知りませんでした。少なくとも私は、自分のつらさを大人に訴えることができないかわりに、怒りの矛先を女子に向けていました。
さらに絶望的だったのは、別の何人かの男性教師たちはチーマーに媚を売り、チーマーが「男らしくない」生徒にふるう暴力を「男子あるある」として容認したり、時にチーマーたちの暴力を煽ったりしていたことでした。特に「男らしく」ない生徒たちは「オタク」とか「ホモ」とからかわれ、チーマーのターゲットにされて、よく暴力をふるわれました。
これらから見える「痛み」の原因は、「男らしさの強要」「ホモソーシャル」「男性同士の上下関係」「”男らしくない”者への暴力」まさに、マスキュリズムが扱う”有害な男性性の構造”によるものである。
これらは女性を解放する運動であるフェミニズムの領域で語られるものではなく、男性の「男らしさに対する社会的期待」からの解放を訴えるマスキュリズムなのだ。
たしかに、マスキュリズムに比べ、現状「フェミニズム」という言葉は社会に広く知られていて使いやすいものかもしれない。しかし、女性が長い歴史をかけて、女性のための語りの場として築き上げてきたフェミニズムに、軽々と乗っかることを許すのは難しい。そうすることで、またも女性の声は沈黙させられてしまうのだから。
男性の痛みへの解放は、男性たち自身が声を上げるエンパワーメントとして、自分たちの言葉で彼ら自身で語り合わなくてはいけないのではないだろうか。その為に「マスキュリズム」という言葉が既にある。
自らの痛みを、自分たちの言葉である「マスキュリズム」として訴えろ。
フェミニズムとマスキュリズム
わたしたちの言葉は、対立しない。フェミニズムとマスキュリズムは決して対立構造にはないのだ。男性の痛みも、女性の痛みも、同じように存在している。どちらの苦しみも優劣をつける必要もない。
ただ、この社会の実情として、女性の声はあまりにも消されやすい。その簡単に消されてしまう声を、女性たちが長い時間をかけて、消えないように必死に灯してきたものがフェミニズムだ。その声をどうか、再び掻き消さないでほしい。
そして同時に、特権を与えられた側に見える男性たちも、フェミニズムという場所を借りず、自分たちの言葉で痛みを語ってほしい。それがマスキュリズムの役割だ。
女性の声を守りながら、男性も自分の言葉を取り戻す。その両者の語りが補完し合うことで、この社会はよりフラットに、すべての人にとって生きやすい場所へ近づいていくのではないだろうか。
