自由、愛、そしてやせ我慢
《その一: 自由とわがままは違う?》
自由とわがままの境界線とは何でしょうか。約150年前、福澤諭吉が『学問のすゝめ』で、「自由」と「わがまま」は別物だとして、
「自由とわがままとの境は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。」
と書いています。この「妨げ」は、いまの感覚よりもずっと重い意味を持っていて、たとえば、自分のお金だからと酒や遊びにふけり、仕事も勉強も放り出すのは自由では? と、私などは思ってしまうのですが……
しかし、福澤に言わせれば、それは自由ではなく「わがまま」になります。なぜなら、一人の放蕩は周囲の手本となり、社会の風俗を乱すから、という理由です。私自身、大酒飲みなのでたいへん耳の痛い話です。
人は本来、生まれながらに縛られない存在です。法律や常識に従わない選択も潜在的には可能です。しかしその「原始的な自由」をそのまま濫用すれば、多くの場合、単なるわがままに堕してしまう。
節度、という言葉を大切にしようと思ってます。自由をわがままにしないように。家庭や職場での自分の言動を振り返ると、これは自戒であり自己批判でもあります。自由とわがままの線引きは、私にとってずっと重要な課題です。
《その二: 同胞愛がなければ自由は暴走する?》
フランス革命の理念であり、現在のフランス国のモットーである “Liberté, Égalité, Fraternité”――「自由・平等・博愛」
このうち自由と平等は、日本国憲法でもはっきり明文化されています。第13条に「自由および幸福追求権」、第14条に「法の下の平等」など。では「博愛」は?
憲法前文には「平和を愛する精神」や「相互の尊重」とありますが、fraternité という語が持つ、人間臭のする響きは薄いように思います。これ以降、博く愛する「博愛」という、愛の対象があいまいな訳語ではなく、原語の意味する「兄弟愛」により近い「同胞愛」という語を用います。
近代以降の市民社会をひそかに、縁の下の力持ち的に支えているのは、そこはかとない「同胞愛」なのではないか、と思ったりしています。
たとえ嫌いな人や全然合わない人でも、「同じ社会を生きる仲間」として最低限の敬意と愛情を向ける。それがないと、fraternité というリミッターを欠いた言論の自由が、敵意と攻撃に変質し、国でも、SNSでも、職場でも、あらゆる共同体を内部から壊していくのではないでしょうか。
《その三: 愛の実践には「やせ我慢」がつきもの?》
とはいえ、fraternité/同胞愛を実践すれば、それはつねに『やせ我慢』です。納得できない、間違っている、気に食わない、嫌い……という感情をひっそり受け流して、自分の中で消化する。反論したいけど、ぐっとこらえて、あえて黙る。やせ我慢。あるいは、ちょっとした自己犠牲ともいえます。
この「映え」が重宝されるスタイリッシュな時代に、泥臭く、あいまいで、そして誰にも気づかれない、なんとも地味な作業。それでも……
「あらゆる共同体の屋台骨は、そして今の私たちに必要なのは、この静かなる同胞愛。そしてそれに基づくほんのちょっとのやせ我慢である。」
大嫌いな人でも、同じ共同体に属するメンバーとして、ちょっとだけは愛する心意気を持ちたい。柄でもなくそう放言して、この雑感をひとまず終えます。加齢とともに忍耐力が試される場面が増えてきた48歳による、備忘録としての自戒と自己批判の一環であります。がんばれ、明日の自分—そして……
注: 「痩せ我慢」の意味はだいぶ異なりますが、福澤諭吉の「瘠我慢の説」との時代背景を比べたゆるいアナロジーを感じながら書きました。
kei さんとkei さんの素敵な絵への感謝と敬意とともに。
