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第5話「ひえだのじーちゃん」

お店を開店して、どれくらい経った頃だっただろう。

夕方4時過ぎ。

まだ開店まで2時間もあるのに、店の扉をトントンと叩く音がした。

「ん?」

「こんな時間に誰だろう?」

氷屋さんかなと思いながら扉を開けると、そこには見知らぬおじいちゃんが立っていた。

「いっぱい飲ませてくれ。」

私は慌てて答えた。

「6時開店なんですよ。まだ準備中です。」

すると、そのおじいちゃん。

私の返事など気にする様子もなく、店に入りカウンターへ座った。

お年寄りだし……

まぁ、いいか。

「お料理もまだ準備できていませんよ。」

すると、

「つまみは、スルメか金平糖はあるか?」

と言う。

なぜその二択なのか分からなかったけれど、スルメがあったので出した。

「お飲み物は何にされますか?」

「日本酒はあるか?」

「純米酒と剣菱があります。」

「剣菱を冷でくれ。」

そうして飲み始めたおじいちゃんは、私に話しかけた。


「あんた、ここのママかい?」

「そうです。」

「僕はな、このビルで40年飲みよる。」

それから話が始まった。

朝、家を出て西新で碁を打つ。

昼に弁当を食べる。

そして夕方になると、このビルに来て酒を飲む。

それが毎週の楽しみなのだそうだ。

年齢を聞いて、私は驚いた。

なんと94歳。

私の父でさえ、まだ75歳だった。

さらに話を聞くと、

「僕はシベリアで抑留されとった。」

と言う。

戦争が終わったあと、シベリアでの抑留生活を経験し、日本へ帰国。

その後は電電公社で働いたそうだ。

私には想像もできない人生だった。

それからというもの、週に1回。

開店前の4時過ぎになると、ひえだのじーちゃんがやって来る。

そして私は、何度も何度も同じ話を聞くことになる。

もちろん、スルメと金平糖は常備するようになった。

ある日、私はふと思った。

「こんな硬いものばかり食べて大丈夫なんですか?」

すると、じーちゃんは得意そうな顔で言った。

「入れ歯じゃなかよ。」

94歳でスルメを噛みちぎり、日本酒を飲む。

なかなかの強者だった。

ひえだのじーちゃんは、いつも身なりも
きちんとしていて、とてもダンディーだった。

おしゃれなジャケットを着こなし、とても90代には見えない。

「今日も素敵なジャケットですね。」

そう言うと、

「そうか。」

と、少し嬉しそうな顔をする。

そんな表情が可愛らしかった。

時にはイチゴやチョコレートをお土産に持って来てくれることもあった。

そして必ず、

「ママも何か飲んで。」

と、ビールをご馳走してくれる。

優しいじーちゃんだった。

でも滞在時間は長くない。

30分もしないうちに席を立つ。

向かう先は、このビルの1階にある「年金バー」。

そこで軍歌を歌うのが楽しみだったらしい。

毎週のように顔を見せてくれていたひえだのじーちゃん。

ところが、ある時を境にぱったり姿を見なくなった。

どうしたのだろう。

気になっていたら、お向かいのお店のママが教えてくれた。

「ひえださんね、どこかで転んだらしいよ。」

「それで息子さんから外出禁止令が出たみたい。」

そうだったのか。

寂しかったけれど、94歳を過ぎていたのだから仕方ないのかもしれない。

ひえだのじーちゃんみたいな先輩方が、日本のために闘い、働いたお陰で今があるのだなぁと思った。

生きていたら、とうに100歳は超えているはず。

あのダンディーなジャケット姿と、

「剣菱を冷でくれ。」

という声を、私は今でも時々思い出す。

このビルで40年飲み続けた、ひえだのじーちゃん。

あの頃の天神を知る、生き証人のような人だった。

ひえだのじーちゃんがこなくなって…
お店が閉店時間に、グラスを片付けていると…

たまに扉が開く事がある。
「あら、ひえださん?どうぞ!と
剣菱でいいよね!」
と独り言を言う事が、幾度かあった。

ここまで、読んで頂きありがとうございます。

次回は、104回来店のオラウータンシンさん登場します。
お楽しみに…

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