涙のエリアマネージャー ~多摩・甲州街道の謎~ 第2話「高尾山の仏舎利塔と、雪の中の手紙」
十二月。
佐藤弘年は、高尾山の薬王院にいた。
毎年恒例の塗装ボランティアだ。二〇一七年に始めて以来、八王子支店の大切な行事になっている。今年は仏舎利塔の白い壁面を、スタッフ総出で塗り直す。
二十代のスタッフたちが、慣れない刷毛を握りながら奮闘している。
「支店長、ここの角、どうやって塗ればいいですか?」
「おう、見てろ。こうやって、刷毛の先を斜めに当てて……」
佐藤は自ら手本を見せる。元々器用な男だ。理容師時代に鍛えた手先の感覚が、こういう時に生きる。
「すげえ、きれい……」
「だろ? 丁寧にやれば、誰でもできるようになる。焦んなくていいから」
昼休み。スタッフたちが境内のベンチで弁当を広げている中、佐藤は仏舎利塔の裏手を一人で歩いていた。
午後の作業に備えて、塗装面の状態を確認するためだ。北側の壁面は日当たりが悪く、苔が生えやすい。高圧洗浄の跡を確認しながら歩いていると、壁の下部に違和感を覚えた。
塗膜が、一箇所だけ浮いている。
佐藤はしゃがみ込んだ。指先で軽く押すと、塗膜の下に空洞がある感触。
「……なんだ、これ」
佐藤はポケットからカッターナイフを取り出し、慎重に塗膜を剥がした。
下から現れたのは、小さな穴だった。壁面のモルタルに、意図的に開けられた穴。その中に、何かが詰まっている。
ビニール袋に包まれた、紙片。
佐藤は薬王院の住職に連絡を取った。
「壁の中から、こんなものが出てきたんですが……」
住職は驚いた顔で紙片を見た。ビニール袋の中には、便箋が一枚。古い万年筆のインクで、丁寧な文字が書かれている。
拝啓この手紙を見つけてくださった方へ。私は昭和六十二年にこの仏舎利塔の塗装工事を担当した職人です。名前は高橋義雄と申します。この塔を塗っている間、毎日この場所から富士山を眺めていました。妻と二人で登った高尾山の思い出を胸に、一刷毛一刷毛、心を込めて塗りました。妻は来年の春を待たずに逝くでしょう。医者にそう言われました。だから、この塔の中に手紙を残します。いつか誰かがこの壁を塗り直す時に、見つけてもらえたら。妻へ。美代子。ありがとう。
高尾山から見る富士山は、今日も変わらずきれいだよ。昭和六十二年十一月 高橋義雄
佐藤は、読み終わる前に泣いていた。
声を上げて泣いた。四十九歳の大の男が、仏舎利塔の裏で、声を殺すこともできずに泣いた。
昭和六十二年。一九八七年。三十九年前だ。
高橋義雄という塗装職人が、余命を宣告された妻への想いを、自分が塗った壁の中に埋めた。いつか誰かに届くことを願って。
佐藤は調べ始めた。
高橋義雄。昭和六十二年に薬王院の塗装工事を担当した職人。住職に聞いても、当時の記録は残っていなかった。三十九年前の下請け業者の名前など、誰も覚えていない。
だが、佐藤は諦めなかった。
八王子市内の塗装業者を片っ端から当たった。古い業者名簿を探し、引退した職人たちに電話をかけた。三日間、仕事の合間を縫って聞き込みを続けた。
四日目の夜、一本の電話が鳴った。
「佐藤さん? 高橋義雄さんのこと、聞いてるんだって?」
声の主は、八王子で四十年以上塗装業を営む老職人だった。
「高橋さんなら知ってるよ。腕のいい職人だった。奥さんを亡くしてからは、しばらく仕事を休んでたけど……その後、また現場に戻ってきてね。十年くらい前に引退したはずだ」
「今、どこに?」
「日野市の老人ホームに入ったって聞いたことがある。確か……ひまわり荘、だったかな」
翌週の月曜日。休日。
佐藤はランクルを日野市に向けた。助手席には、ビニール袋に入った手紙。
ひまわり荘の受付で名前を告げると、職員が案内してくれた。
「高橋さん、お客様ですよ」
車椅子に座った老人が、窓際にいた。八十代後半だろうか。白髪で、痩せているが、目には力があった。
「高橋義雄さんですか」
「……そうだが。あんた、誰だい」
佐藤は自己紹介をした。エースリフォームの佐藤です。高尾山の仏舎利塔の塗装ボランティアをしています。壁の中から、手紙を見つけました。
高橋さんの目が、大きく見開かれた。
「……見つけて、くれたのかい」
「はい」
佐藤は手紙を差し出した。高橋さんの手が震えている。
「三十九年だ……」
高橋さんは手紙を胸に抱いた。そして、静かに泣いた。
佐藤も泣いた。もちろん泣いた。
「美代子は、あの年の三月に逝きました」
高橋さんは、落ち着いてから話してくれた。
「あの塔を塗っている時、毎日富士山が見えた。美代子と二人で高尾山に登った時と同じ景色だった。だから、あの壁の中に手紙を入れたんです。いつか、誰かが塗り直す時に見つけてくれたら……美代子に届くような気がして」
佐藤は鼻をすすりながら言った。
「届きましたよ。届いたと思います」
「……ありがとう。あんた、泣き虫だね」
「よく言われます」
二人は笑った。
帰り道、佐藤はランクルのハンドルを握りながら考えた。
古いものには、時間が積み重なっている。
ランクルにも。ヴィンテージの革ジャンにも。仏舎利塔の壁にも。
そして、その時間の中には、誰かの想いが詰まっている。
リフォームという仕事は、その想いに触れる仕事だ。古い家を壊すのではなく、守る。塗り直す。次の時代に渡す。
佐藤は信号待ちで、ふとカーステレオのスイッチを入れた。ウルフルズの「バンザイ」が流れてきた。
「……っ」
また泣いた。
その夜、家に帰ると、息子の楽がリビングで宿題をしていた。
「パパ、おかえり。……また泣いたの?」
「泣いてねえよ」
「目、赤いじゃん」
妻のめぐが、キッチンから顔を出した。
「今日はカレーだよ。楽のリクエスト」
「最高じゃん」
佐藤はビートを抱き上げて、ソファに座った。
フレンチブルドッグの温かい体が、腕の中でもぞもぞ動く。
古いものを大事にする。家族を大事にする。仲間を大事にする。お客様を大事にする。
それが、佐藤弘年という男だ。
暑苦しいくらいに、熱い。
だけど、その熱さが、人の心を動かす。
翌月、佐藤は高橋さんを高尾山に連れて行った。
車椅子を押して、ケーブルカーに乗り、薬王院まで登った。仏舎利塔の前で、高橋さんは長い間、白い壁を見つめていた。
「きれいに塗ってくれたんだね」
「はい。うちのスタッフで塗り直しました」
「そうかい……。美代子、見てるかい。あの壁、今もきれいだよ」
冬の高尾山から、富士山が見えた。
澄んだ空気の向こうに、白い頂が光っている。
佐藤弘年は、また泣いた。
でも今度は、笑いながら泣いた。
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