カレーカレーグループ『緑が丘』を観る練習。
お久しぶりです。志塚海斗です、劇作家です(強い念)。
カレーカレーグループの『緑が丘』を観ました。
いや、もうとんでもない面白さで「これが…これが北海道戯曲賞を獲るってことか…!!」と超戦慄しました。ヤバいって、スゲー面白かったもん。
鹿内聡 その言葉が持つ「体力」
カレーカレーグループは、実際の上演を観たのは今回が初めてでした。
前回の『魔法部』は戯曲を(それこそ戯曲賞の候補時に公開されていて)読みました。
「台詞なっっっが!」と思いました。
でもその長さは、詩的で文学的で~といった類のものではなく、マジで普通に「口語」として長いのだ。もっと具体的に表現するなら、どこまで台詞を引き延ばしても、「リアリティ」や「生活感」を損なうことがないのだ。
こういうのを僕は、なんという言葉で表現するのか知っている。
「台詞が巧い」
これである。超絶技巧と言ってもいい。
一汁一菜的な「超絶技巧」
だが、鹿内くん(くん?さんじゃない?)の台詞ないし文体の素晴らしいところは、例えば何かピアノの速弾きみたいに「すごい!もう素人目に見ても!人間業じゃねぇぜ!」というような、イメージ通りのカッコつきの「超絶技巧」ではなく、どちらかというと
「え、待って、肉じゃがってこんな美味しくなるの? 何これ、え?」と思ってたら作ったのは土井善晴さんでしたみたいな(すいません最近は料理にハマってて…)、その技術を持ってして抽象的な創作料理を作るんじゃなくて、肉じゃがを作らはるんですね…!一汁一菜でいいのね…!というタイプの超絶技巧である。
うん?伝わってるか?
とにかくすごいのである。ひけらかしてない。
「台詞に体力がある」と観ていて思った。鹿内さん(さん!)が求める尺に耐え得る言葉。ないし、その言葉がその尺に耐えられるようなリズムコントロール。つまり「言葉」から「台詞」への調理方法が言葉に対してバチコン!とハマっているのだ。
だからテキストで見るとびっくりするくらい長く見える台詞も抜群の鮮度でもって、つまりリアリティを損なわず面白い形で舞台上に上がるのである。
もちろんそれは鹿内さんの演出力もあろうし、何より俳優の強靭さと技術力によって、僕たちに届けられているワケだが。
『緑が丘』と資本主義リアリズム
本作『緑が丘』は千葉県のとある町に住んでいた主人公のはるかさんが、家出同然で出てきた実家のお母さんが倒れてしまったということでこの町を出ていくにあたり、お世話になった人たちにちょっとした贈り物をしていく…という話。
三人称視点が生む批評性
本作は基本的にダイアローグ(対話)で進行していくのだけど、折に触れて主人公のはるかさんの動向を「ゆかり」というキャラクターが三人称的に、いわば小説の語り手のようなポジションで語っていき、そこで会った人物との会話の場面を幽霊のような感じで、基本的には憮然とした感じで眺めている。
台詞がどこまでいってもリアリティを損なわないと先述したが、劇空間自体は「リアリティは虚構である」という文字通りの第三者視点(批評性)が挿入されているという点が面白い。
また、個人的にとても良かった場面が大音量のママス&パパスの『愛する君へ』が流れながら焼酎のソーダ割をつくり錠剤を流し込む場面。
いま戯曲を読んで「ママス&パパス!?マジで!?最高じゃないか!?」と驚いているのだけど、このシーンだけ異様に映画然としていてメチャクチャにカッコよかった。このシーンで完全に心掴まれてしまった感じがある。
センスが良すぎる。PTAの映画じゃん。
リミナルスペース演劇
この作品はおよそ二部構成になっているのだけど、作品の後半部で登場人物たちは(なぜか)真夜中の緑が丘駅に閉じ込められてしまう。全ての出口はシャッターで閉じられ、始発の時間になって誰かが来るまではおよそどうしようもない…という展開になる。
今にして思えば、フライヤーの写真を見て「なんかどことなく、ヴェイパーウェーブ的な空気があるぞ…」と思っていた僕の直感は少し当たっていて、この作品はなんと「リミナルスペース演劇」なのである!
リミナルスペースとは何かというと、まぁつまりThe Backrooms的なことで、どこまでも終わりがない空間や、本来人間がいて然るべきはずの場所が無人(それこそ深夜の駅の連絡通路的な場所とか)であるときに感じる不気味な感じを空間に落とし込んだホラーの1ジャンルである。
どこまで行っても出口がない。だが以前いた場所に戻ることも出来ないし、そもそもどうやってここに来たのかも定かではない。そんな状況の中で主人公たちは進むか留まるかの選択を迫られる。
さてここで、僕はもうひとつ文脈を挿入してこの『緑が丘』を語りたい。それが「資本主義リアリズム」である。
主にマーク・フィッシャーが唱えたので有名な資本主義リアリズムという概念は、簡単に言うと(簡単に言える程度にしか知らないが)、「資本主義以外の現実が考えられなくなっている今、この状況」みたいなことだ。ここで「リアリズム」という語を使っているのが肝で、資本主義は「リアリズム」であって「リアル(現実)」ではない、ということをフィッシャーは言っている(多分)。資本主義という虚構を「信じさせられている」というのが彼の言わんとするところである。
つまり、資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態のことだ。
僕も別に一貫した政治的態度があるわけではない(良くない)が、この現代社会にはやはり閉塞感を覚えずにはいられない。
エンタメひとつとってみてもそうで、最初のうちは色々な作品の再生産や「〇〇年ぶりの続編!」などの言葉に踊らされていたが、いつの間にか再生産と続編ばかりが目に映るようになってしまった。世の中に新しい物が何もないのだ。
僕だって懐古趣味な人間だけれど、これは行き過ぎだなと思う瞬間がある。
ノスタルジーによって想像力を奪われているような感じだ。
閉塞感。
『緑が丘』は前述のようにリミナルスペースという仕掛けによって、作品それ自体とドラマの主題としての「閉塞感」を見事に表現している。しかもその閉塞感には、「資本主義リアリズム的な」という前置きをつけてもいいはずだ。
リミナルスペースと化した緑が丘駅を地下へ地下へと進みながら、はるかさんは以下のような言葉を漏らす。以下、女1とははるかさんのことだ。
女1 ……どうやったらさ……こっからなんか……なんか、よくなれるんやろうな
折り合いが悪いままに、母親がもう長くないということになってしまったことと、進めば進むほど光が失われていく緑が丘駅。ゴールも正誤も現在地も分からないままにただただ歩き続けるしかないこの物語内の状況とはるかさんの心境が見事にリンクしている。これは思い切って言うならば「人生」そのものの比喩でもあり、それはそのまま現実(社会)そのもののメタファーとしても機能するはずだ。
だが、ここで重要なのははるかさんがこの時点でひとりではない、という点である。
彼女と共に地下へと歩みを進めるのは、はるかさんの元カレ、南くんの今カノであるゆかりさんだ。
先述のように嘆くはるかさんに、ゆかりさんは「その、よくっていうのはどういう…?」と投げかける。
つまり、想像を促すのだ。
ゆかりさんは想像する
ゆかりさんというキャラクターは、この作品において「三人称的に」話を進める人物でありながら、リミナル緑が丘駅に放り込まれるまでは、はるかさんとは完全な他人だった人物だ。だが彼女が他の人物(男性たち)と違うのは、彼女ははるかさんのことを想像していた、という点だ。
以下、女2とはゆかりさんである。
女2 (中略)南くんはこのはるかさんて人のことを全然わかってなかったんじゃないか、って思うようになってきたんです。なんかむしろ、おもしろい人なんじゃないかって……。だから会ってみたいなって……。夢に出たりしましたよ
女1 わたしが?
女2 夢でこうやって会って、しゃべるんです
ゆかりさんは彼氏の南くんからはるかさんのことを聞き、はるかさんのことを想像する。だがそれは、南くんの言葉の再現ではない。それとは別の(最近僕の中で流行ってる言葉でいうと)オルタナティブな形での想像なのだ。
これがこのドラマのすごく効いているところだし、何よりはるかさんというキャラクターの魅力である。
その後、はるかさんと共に地下へ地下へ進む二人は、前述の「よくってのは、どういう…?」という投げかけから、二人の好きなもの・好きだったものの話になり、ゆかりさんの好きなものであるお茶とお菓子、そしてはるかさんの好き(だった)なものである絵の店をここ(リミナル緑が丘)でやる、という話になる。
女2 そしたら絵と、お茶とお菓子のお店だ
女1 ああ。それをやる
女2 うん、二人で
女1 ああうちらで?
女2 とか。とかね。それの、途中だと思う、今を。
女1 ……
女2 とかね。
女1 ああ……ええかも
この一連のやり取りの美しさ。泣いちゃうよ。
特に「それの、途中だと思う、今を」は非常に示唆に富んだ台詞である。
現状(現実)の閉塞感。それに言わば抗するようにして「想像する」ことを選ぶゆかりさんが、この現実という今を、「お店」という夢・未来の途中だとして今を捉えなおそうとはるかさんに提案している、という構図なのだ。
資本主義リアリズムの話に立ち戻ってみる。
この現実の閉塞感。「これ以外の道はない」と思わされている僕たちは、日々に追われる中で想像力を抱くことも出来ないほどすり減らされ、疲弊していく。どんな想像も結局はこのリアリズムに浸食されてしまうという敗北感が、想像力に抑制をかけているのだろう。
「もうよくなることはない」と思ってしまうはるかさん(僕たち)に、ゆかりさん(この戯曲/鹿内さん)は待ったをかける。
今のこの現実を、未来の途中だと思おうよ、と。
僕たちはしばしば、今がこんなんだから未来もロクなことはないと思ってしまうけれど、実はこの矢印は、逆向きに持っておくべきなのだ。
未来はどんな風にも想像できる。そこから、今を変えていくことができるのだといったように。
物語の最終盤、はるかさんとゆかりさんはリミナル緑が丘からの脱出に成功する。
ゆかりさんははるかさんに、緑が丘駅ってのは丘だから…と説明する。
女2 (中略)だからつまり、地下の地下は、ふもとなんです。
底へ降りていくこと。それは暗く深く、僕たちをどうしようもなく陰鬱にさせる。だが想像力を持って進んでいけばいつか出口に辿り着く。
それはきっと今までとは異なる、新しい丘の「ふもと」であることを強かに信じながら。

カレーカレーグループ 第5回公演
『緑が丘』
2026年6月26日〜28日@あさくさ劇亭
これが
このまちで見る
最後の夢
【作・演出】
鹿内聡
【出演】
鹿内聡 瀧上ねね 服部淳子 山本泰暉 與那城史登
【会場】
あさくさ劇亭
(台東区西浅草2−8−2)
【日時】
2026年
6月26日(金)〜28日(日)
26日(金)19:00
27日(土)13:00/18:00
28日(日)13:00/18:00
【スタッフ】
舞台監督:能見千秋
演出助手:山田陣之祐
照明:荒井紫音
音響プランナー:ヒラザワタケル
音響オペレーター:永田那由多
制作:弓削風佳
宣伝美術:鹿内日向子

