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教会の在り方と現代の影の考察 1 【燃ゆる思索 第四編】

自らが「illuminator」である自覚を持ち、誰もが幸福に生きるために
教会は何ができるか?

──はじめに

現代社会は激しく変動している。超AI時代の到来、生き方の多様化、地球温暖化から地球沸騰化。そんな将来の予測が困難な状況を「VUCAの時代」と呼ぶ。この時代を生き抜くには、「変化への柔軟な適応力」が求められる。

だが現実は、多くの人々が「生きづらさ」を抱えている実情がある。例に、人間関係における摩擦や経済的な不安などその種類は多岐にわたる。
加えて、日本人特有の強い同調圧力や承認欲求、恥の文化など、長い歴史を経て身についた思考様式が私たちに苦しみをもたらすことがある。

この「生きづらさ」とは、自己を抑制し、忍耐を強いられることに起因するものであり、同時にそれは個人の主観に基づく感情や状態を指す。では、
いかにして「生きづらさ」を克服し、自分らしく生きることができるようになるだろうか—。

※本記事で述べる「教会」とは、主にプロテスタントの諸教会を指す。

注釈

──人間と宗教の関わり、教会の役割の問い

すべての人間は本来、自己実現幸福追求を目的としてこの社会で生きる。そして宗教は、すべての人間に「生き方を問うもの」として存在する。

しかし、近年の若年層においては、複雑化・多様化する現代社会の中で、「自らの存在価値とは何か」という問いを抱え続け、時にその意義を見出せずに苦悩し、深い孤独や喪失感に苛まれる者が増加している。加えて、日々の生活に忙殺される中で自らの生き方に迷える者も、かつてないほど増加していると考える。

一方、宗教に対しては、過剰な信仰が生む悲惨な事件や生活実態から否定的な印象を持つ傾向が依然として根強く見られる。「宗教=危険・有害」といった単純化された認識が、一定の世論として形成されつつあるように。

これらの現状と背景にあるものを「現代の影」と捉えたとき、
教会はいかに未来を照らすことができるか。

また、全ての人間に”光”があることを自覚させ、
その光を用いて実り豊かな人生を歩むために、教会に何ができるか。

若年層における礼拝参加の減少という教会の諸課題も考慮に入れつつ、
現代における実存的問題の解決を、教会の在り方の追求を通じて考察する。これが本記事(一連の思索)における主たる思索の目的である。

自らが「illuminator」である自覚を持ち、誰もが幸福に生きるために。

※illuminator:光を与える者。この光とは、私のうちに秘める希望や力(得意/スキル)のことを指す。聖書的な解釈では、ヨハネ福音書12:36より「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」と、ペトロの手紙4:10より「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」から、光(賜物)を持ち、それを分け与える人(他者貢献と共存の姿勢/伝道と救いの手)を指す。

注釈

キリスト教の「教会」とはどういう場であるか。

それは、
信じる力を持つ人間としての集いであり、本音で語り合うことのできる場。
聖書の御言葉を聴き、祈りや賛美をもって神を礼拝する場所。私たちは、日々の生活を振り返り、神様との関係を見つめ直すとともに、改めて世に遣わされていく。

教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

エフェソの信徒への手紙 1:23

共に”キリストに導かれる者”として聖書の教えに生きる力を得るために、お互いに励まし合い、支え合う関係を築く。そして神様の恵みと祝福によってその者たちは守られる。

つまり教会も、一つのコミュニティである。

毎週日曜日の決まった時間に、礼拝や奉仕、団欒といった交流のひとときを共に過ごす。礼拝は自分自身の生き方を考える機会であり、奉仕や団欒はその実践(神の愛/隣人愛)の機会である。

これをもって新しい1日、新しい1週間を始める。

このコミュニティは「もう一つの家族」と言われるように、そこは”癒し”であり、”霊的な成長”の空間である。心を休めたい時、神様と隣人(仲間)が共に居てくれる。生き方に迷う時、聖書の御言葉や賛美の歌が光を見出ださせてくれる。この空間は、私たちのサードプレイスとして機能する。

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

マタイによる福音書 18:20

だが、私たちは教会があるからそこに集うのではない。私たちが集うことによって、そこに教会がある。教会は、「エクレシア(集会)」──すなわち、集う人々そのものを指すゆえに、どこで集おうにもそこは広い意味で教会と言える。場所に縛られることはない。

※エクレシア:ギリシャ語で集会という意味。イエスを信じて歩み、主の御名によって機会あるごとに集まり、聖書を中心として礼拝・賛美・祈り・交わりをする人々の集合体のこと。

注釈

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

マタイによる福音書 11:28

教会は、不完全な者たちが集う場である。日常に疲れ、明日を生きる活力を失った者。他の情報ばかりに注目が行き、自分を忘れてしまった者。また、純粋に弱さや影の部分を有する者。

教会は、神を礼拝する場であると共に、居場所としての役割を持つ。人間は完璧に成れる生き物ではない。それゆえに、その者たち同士で愛し合い、共に生きようとする。これこそ人間のあるべき姿である。

教会は、すべての者に開かれた空間でなければならない。だが、教会も近年は過疎化する傾向にある。新しい人を求める余裕はなく、現状を維持することに精一杯なのが現実である。

教会という場の在り方を考えなければならない時が来ている。


実のところ、
私自身、教会という居場所に救われた経験がある。私の歩みを誰も拒否することなく大いに歓迎してくださり、以降、何かを強制されることや自由を奪われることなく、私として過ごすことができている。

無理に来る必要もない、自身の存在の良し悪しに気を遣うこともない。大切なことは愛の心のみ。またそれも、教会で養うことができる。

同じ歳の仲間に出会えること。数々の価値観、人生観、そして内面にある本質を知れること。また私を知ってもらうこと。

教会は、私も人間であることを思い出させてくれる場所。それと同時に、人間になれる場所。

個としての私を生き、他者に破壊されることもあれば、私も何かを与える中で、私を忘却してしまったある時。彷徨う途中で見つけたのは、教会だった。

人々が集い、そこに教会が存在するならば、その価値を高めたい。現代ならではの存在意義を見出したい。それによって、日々迷いの只中にある者を救えるかもしれないと信じて。

これらが現行の「教会という場」である。
さて次に、これからの教会に何ができるだろうか。


──キリスト教の可能性

人はなぜ生きるのか。

この問いは、人間の存在理由や人生の目的を探究する上で、極めて普遍的かつ根源的な問題である。古代より、哲学・神学・文学・心理学といった多岐にわたる分野において論じられてきたが、現代においてもなお、多くの人々が自己の存在意義を模索し、充実した「生」を全うすべく、繰り返し省察される主題である。

しかし、「なぜ生きるのか」と問う前に、私たちは生きることに意味があることを理解しなければならない。なぜなら、生きる意味を見出せない状態は自己の存在を否定し、自らを死すべき存在と捉えてしまう危険性を孕んでいるからだ。

それゆえに、まず「生きることに意味がある」、すなわち「生まれてきた」という事実そのものに価値があるという前提を認識するべきである。そのうえで初めて、「なぜ生きるのか」という問いを真に深めることが可能となる。

聖書において私たち人間は、神の形にかたどって創造されたと、『創世記』に明示されている。

神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。

創世記 1章27節

例えば、時計は時間を知るために、本は知識を伝えるために、ランプは闇を照らすためにあるように、この世に造られたあらゆるものには、それを創造した者の目的や意図が必ずある。

従って、神が私たち人間を創造されたことにも、何らかの目的があると考えられる。ではその目的とは何であろうか。

イザヤ書には、

彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。
わたしの栄光のために創造し
形づくり、完成した者。

イザヤ書 43章7節

と記されている。

「神の栄光のために」それは、自己中心的な生き方を捨て、神を中心とした価値観に基づき、日々の選択と行動をなす生き方を意味する。
すなわち、神の愛や正義、そして真理を反映する生き方を私たちに命じられていると、聖書は語るのである。


聖書は、私たちに生き方を問う書物である。例えば、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という隣人愛の精神や、「それぞれが賜物を受けているゆえに、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい」という奉仕の姿勢を、聖書は繰り返し教える。

そして再び、悔い改めて神に立ち返り、神を愛し、神の意志を受け継ぐ者としてこの世界を生きよと伝える。これこそが、キリスト教における私たち人間の本来の在り方なのだと。

しかし、私たちが信仰を持ち、神に従う生き方をすることは宗教的な色彩が強く、それを容易に受け入れることは難しい。

ただ、聖書が語る愛の精神や奉仕の姿勢を信仰の有無に関わらず、人間としての普遍的かつ本質的なあるべき姿として、その価値を理解することも生き方の一つではないだろうか。それはすなわち、聖書の思考法や視点を自分の内に取り入れるということである。

確かに聖書は、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」とあるように、どの教えもすべて「神を信頼する」ということに収束する。だが現代は、2000年前の古代より遥かに生き方が多様化している。もはや生き方に明確な一本の筋があるわけではない。

だからこそ、宗教を一方的に否定し批判するのではなく、時には自身の「生」に宗教的視座を加えるということがあってもよいのではないかと考える。

聖書が言うように、
私たちはそれぞれに光が備わっていて、なおかつその光を他者に与えることができる存在である。この可能性を信じて生きてみることも、生き方の一つの選択肢だろう。

実際に、人それぞれに個性があるのであって近年は、その個性を活かした仕事や人生を歩もうという傾向が強まる。聖書を通してキリスト教を知ることは、自分自身との対話でもある。

情報が溢れる現代でも、唯一変わることのない聖書の言葉。それを参考に、己のあり方を問い、自分を捉え直し、私を強める。そう言う可能性を宗教(キリスト教)は秘めているのである。

最後に、本記事(一連の思索)が示す人間の目的とは、

自身の光(=個性/賜物)を用いて他者に貢献すること(illuminator)であり、それは言い換えれば、自己実現と幸福追求ということである。


燃ゆる思索 第四編 「教会の在り方と現代の影の考察 1」

>次(教会の在り方と現代の影の考察 2)
(TBD)

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