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『風韻〜余薫』3号〜信仰は私たちの確信が崩された時から始まる」

風韻〜余薫 3号
 聖書には「汚れた霊」とか「汚れた霊につかれた人」の記事がよく出てくる。「汚れた霊」は神様に敵対する存在のように描かれていることが多い。現在の私たちも同じ誤解をしがちである。そのことの間違いに気づかされたマルコが「マルコ福音書」を編集したと思っている。マルコは、主イエスを正しく理解できるのは弟子である自分たちであり、「汚れた霊の人」ではあるはずがないと確信していたことでしょう。しかし、その確信が見事に裏切られた。まさに、「信仰」は私たちの確信が崩された時から始まると言える。
 マルコ福音書では、「主イエス」を「神の聖者」「神の子」等と正しく告白したのは、弟子や聖書の隅々まで学び、よく知っていた律法学者や神殿で生活していた知者ではなかった。主イエスを「聖者」、「主」、「キリスト(救い主)」等と告白したのは、実は「汚れた霊」に取りつかれた人であった。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(マルコ1:23~24)と告白している。現在でも、主イエスを正しく理解できるのはキリスト者とは限らない。初めて教会の祈祷会に出席された人の証しの的確さに驚かされたことが何度もあった。主イエスを正しく理解できるのは、親より子供、学歴のある人より無い人、教師より生徒、牧師より信徒であるのかもしれない。また、このように、逆のことが実現することが最も恵みと感謝に満ちた健全さかもしれない。
 ある教会の祈祷会で「級長さん」と呼ばれている人がいた。聖書箇所をよく調べて出席され、祈祷会で教えるように話された。出席者は何かを学んで持ち帰られるのに、「級長さん」だけは、持ってきた知識をすべて教会に置いて帰られように思えた。聖書の知識は増えるが、信仰的成長が無く、可哀そうに感じた。マルコは「教える姿勢」ではなく、主イエスの弟子でありながら、何も正しく知らなかった告白と懺悔に立って、「マルコ福音書」を私たちに残してくださったのである。
 またマルコが私たちに伝えたかった、もう一つは主イエスの毎日の生活に見習うことである。礼拝生活の重視ではなく、月曜日から土曜日の日常生活の重視である。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)と主イエスの毎日の生活を書き残し、真似ることを勧めている。信仰者の生活は、早朝の10分でも、15分でも「孤独で中で、聖書を静聴し、家族や友のために、世界の平和と和解のために執り成しのお祈りの生活」の実践である。朝に与えられた御言葉と共に一日を過ごせる生活が神様の恩寵である。朝毎に、神様から「いのちの息吹」を吹き込まれ、インマヌエル(神は我々と共におられる)なる神様に導かれて、一日一日を、急がず、休まず、神様に向かって歩みたい。
 約30年前にお招きいただいた教会でお会いした信徒の方から今も、毎日のようにお電話がある。軽い知的障害をお持ちで、施設で生活し、働いておられる。聖書箇所の意味の質問や、施設での生活や職場でのいろいろな出来事や人間関係の様々な問題の質問が多い。季節の変わり目には早朝や深夜にも電話があり、一日に何回もあることもある。属する教会や施設の方に相談をするように何度も勧めているが、誰も電話に出てくれないので、こちらへ電話がある。AI時代が進むと、人間が情報の奴隷化、家畜化の心配が語られているが、主イエスからいただいている温かい交わりをお祈りや電話を通して感じ合うことが牧師・信仰者の使命だと信じ、彼女の無理難題にも誠実に関わりたいと新たに思わされている。Ω

【愚 感】 「風韻ー余薫」 3号 2026年3月
 今年の1月、米国のトランプ大統領は、ベネズエラへ米軍の地上軍を派遣し、大統領を拘束した。また、2月28日にイスラエル軍と共にイランへ軍事攻撃をし、多くの犠牲を生み、イランの最高指導者を殺害した。権力を委ねられている指導者が最もしてはならないことであり、信じられない暴挙であり残念なことである。
戦前、米国のプリンストン大学・神学校に、ヨセフ・ルクル・フロマートカ(ロマドカ)という客員教授がいた。戦後、チエコに帰り、共産党中央委員にも選ばれ、批判されながらも東西冷戦の和解に尽力くされた人格者であった。プリンストン神学校が再度、フロマートカ氏を客員教授に招聘しようとした。アイゼンハワー大統領、ダレス国務長官の時代であった。当然、反共のダレス氏はフロマートカ氏の入国許可を拒否した。ダレス氏はキリスト教の長老派教会の長老(役員)であった。ダレス氏の属する教会の牧師は、ダレス氏に、「フロマートカ氏に入国許可を与えないなら、あなたを『陪餐停止処分』にする」と迫った。それで、ダレス氏は不本意ながらも入国を認めた。当時の教会では、法律違反の罪を犯して裁かれるよりも、教会での、見える救いの「しるし」である主イエスの「肉と血」の「聖餐」にあずかれないことをおそれた。
 海に囲まれた日本では想像できないことであるが、国境を接している国々は、突然、外国に侵略され、支配され、国境が変わり、国名が変わる恐怖感の生活を歴史の中で味わってきた。それは信仰生活にも表れる。16世紀の宗教改革でも、ルターの宗教改革は田園らしく、実におおらかであった。他方、当時の大都会ジュネーブでは、街角に一つのごみが捨てられると、翌朝には、数十倍、数百倍のゴミが捨てられ「ゴミの山」が出来るので、ゴミの投棄にも、規則や自衛が不可欠であった。戦争に関しても、「自衛の戦争」や「義なる戦争」は当然の権利であり、全く疑問の余地がなかった。「義なる戦争」と「自分の信仰」を切り離せない関係に今もある。トランプ大統領や福音派の信仰は、「義なる戦争」の肯定と自分の信仰との関係は、枯れることのない地下水のようなものであった。国や企業を私物化し、教会の私物化の危険も迫っている世界であるからこそ、ダレス国務長官に、「神の道」を説いた牧師のように、人を恐れず、神様を畏敬する信仰者を世界が必要とし、待ち望んでいると思っている。Ω

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