「なんだろうね。」
ーーーいやなの。こわいの。のらないの。
大人気のポニーに乗るアクティビティを断る息子のカイ。動物を触るのは大好きで、馬も好きなのだけど、上に乗るのはどうしても嫌だという。
いつか彼にも乗馬を習わせたいと思っているので、気長にもう数年待ってみようかと思う。カイの年齢の頃、わたしはロンドンで乗馬をやっていた。なんだかどこかの王国のプリンセスの気分になれたし、世界がずっと広く見えた。
乾いた土と藁の匂い、木の柵で囲われたアリーナ。たまに外のフィールドに出て、刈られた芝生の上を前傾姿勢で駆けることが許される時間。スピードに乗ったときの高揚感が、わたしを物語の主人公にした。
障害物を飛び越える瞬間の、無重力の感覚。手綱を通して、意思のあるものに身を委ねる不思議。呼吸をあわせて馬と歩を合わせる感覚は、他人を信頼するそれに似ている。それはとても怖いことだが、馬のほうが遥かに純朴で、ちゃんとそこにいてくれる。カイにも、いつかあの心地を味わわせてあげたい。
帰国して乗馬は続けられなくなったが、ゼルダのエポナに乗って、いつでもハイラルの平原を駆けることはできた。風のように走れるのは、画面の中でも気持ちのいいものである。
海外だと、馬に乗るアクティビティが充実している観光地がある。とくにトルコのカッパドキアは、その異界感漂う地名の由来自体が『美しい馬の国』で、馬に乗って谷を巡るのが醍醐味だという。
当時は遠距離恋愛中だった元夫スティーブとヨーロッパを何カ国か周遊したあと、いっしょにカッパドキアに飛んだ。標高の高いところにある洞窟みたいな街並みは、ゲームの中みたいだった。岩壁に無数の穴が開いていて、岩の回廊の中に民家やお店がひっそりと立ち並ぶ。奮発して泊まったホテルは、岩をくり抜いた迷路のようだった。
カッパドキアといえば、夜明けの空にぽこぽこと浮かぶあの気球である。
ガイドブックにも、ポストカードにも、旅行会社のパンフレットにも、これでもかというほど気球が載っている。あれを見て「乗らなくてもいいや」と思える人は、よほど心が澄んでいるか、すでに人生でだいぶ空を飛び尽くした人だろう。
わたしはもちろん、乗る気まんまんだった。
ところがスティーブが、急にしょぼんとした顔をした。
あんなに大きな体をしているのに、高いところがだめだというのである。世界中を飛び回り、知らない国でも平気な顔で歩き、レストランではよくわからない料理にも堂々と挑む彼が、気球となると急に予防接種の順番を待つ子どもみたいな顔になった。
ーーーちょっと怖い。死にたくない。
そう言われたとき、わたしは思わず吹き出してしまった。人間というのは、どこに弱点を隠し持っているかわからない。巨体の彼の中に、小さな怖がりの少年が住んでいたのである。
結局、気球には乗らなかった。
まだ空気の端っこに夜が残っているような朝、他人を乗せた気球がゆっくり空へ上がっていくのを、屋上から二人でぼんやり見上げた。
考えてみれば、あれはあれでよかった。自分が宙に浮かぶより、誰かが浮かんでいくのを地上から見送るほうが、妙に平和な気持ちになる。こちらは命綱もいらないし、膝も震えない。スティーブも安心している。
無数の気球が、ダンジョンのような奇岩の山々を背景に、ゆっくり空へのぼっていく。あまりに幻想的で、手に持っているコーヒーの存在も忘れてしまっていた。
彼がぽつりと言った。
ーーー君となら、落ちてもよかったかもな。
あんなに怖がっていたくせに。わたしは笑った。笑って、それ以上は何も言わなかった。
気球に乗らずにすんだ185センチが、その横で、心底ほっとした顔をしていた。いい朝だった。
二人で馬に乗って、巨大なキノコ岩や細く尖った岩が並ぶ谷を歩いた。シーシャを魔道士のように吹かしながら、甘ったるいチャイを何杯も飲み、薄い生地にチーズやほうれん草を包んだギョズレメというパンケーキを食べた。夕暮れ時には、ピンクに染まった岩肌の間を、蹄の音を響かせながら駆け抜けた。
彼はあまり写真を撮らない人だったけど、「この光景はずっと覚えておきたい」と言って、彼を撮るわたしを、目を細めて撮っていた。
そこら中にぶらさがっていた、青い目玉の飾りたち。わたしは数あるアイテム屋の中で、あえてこの上なく怪しい片目眼帯おやじから買った。まとっている空気が、まるで魔術師だったからである。
スティーブはぜったいに自分用になんて買わないから、二つ。
裏に日付を書いて、空港で別れる前に忍ばせておこうと思って。次はいつ会えるかもわからないのに、イスタンブールでさよならだったから。
その二つのガラスの目玉を、カイは今「タイヤみたい」といって、自分の玩具箱にトミカといっしょに大切そうにしまっている。
片方には、わたしの下手な文字で16/08/2018と書いてある。
ーーーねぇ、ママ?この数字はなに?
ーーーなんだろうね。
わたしは静かにトイレに向かった。
