浮気かもしれない・・・。
哲学をテーマに現代風の物語にしています。
誰でも一度は疑う気持ちをテーマにしてみました。
よかったら読んでみてください。
【第16話:浮気かもしれない】
【疑惑】
沙耶(さや)は、春から大学三年になる。
その日、友達の芽依(めい)がスマホを
差し出してきた時、
沙耶の心臓は一瞬、止まった気がした。
「ねえ、見た?これ」
画面に映し出されたのは、
彼氏・湊(みなと)のSNSのスクリーンショット。
見慣れた彼のアイコンの下に、“いいね”の履歴。
そこには、全く知らない女の子の
アカウントが、いくつも並んでいた。
「この子、○○大学のミスコン準グランプリ
だって。ほら、沙耶と同じ系統のメイクで、
服の趣味も似てるでしょ?」
芽依の声が、遠くで聞こえる。
沙耶は、自分の顔がどんな表情をしているのか、分からなかった。
笑ったつもりなのに、
口角はぴくりとも動かない。
画面の中の彼女は、
確かに自分とどこか似ていた。
それが、胸の奥をじりじりと焼く。
湊は、サークルでも目立つ存在だ。
真っ直ぐで、器用で、
でもどこか他人に無関心なところがある。
その「無関心」が、今はひどく沙耶を苛んだ。
付き合って一年半。
数えきれないほどの喧嘩をして、
その度に「もう無理」と心の中で叫んだ。
それでも、彼の隣を離れられなかった。
彼の不器用な優しさが、
沙耶にとって唯一の居場所だったから。
最近、LINEの返信が少しだけ
遅くなった気がした。
既読はつくのに、数時間、
時には半日も返信がない。
「ごめん、疲れてた」
たったその一言に、
言い訳を探す自分に嫌気が差した。
週末の予定を聞いても、
「また連絡するね」と濁されるばかり。
嫌な予感は、根拠がないからこそ、
心の奥底に深く、しつこく絡みつく。
友人に相談すれば、
決まって同じ言葉が返ってきた。
「彼氏、絶対浮気してるよ。
だって、そうとしか思えないじゃん」
きっかけは、
彼のフォロー欄に別の女の子が増えていたこと。
それに、「最近冷たい気がする」という
沙耶の主観的な印象が加わり、
噂は雪だるま式に膨らんでいく。
そして自分、友達、誰もが「浮気」という
結論に結びつく。
沙耶の心は、鉛のように重くなった。
【できない証明】
その夜、沙耶はとうとう湊に切り出した。
震える声で、たった一言。
「浮気してるの?」
沈黙が、部屋を満たす。
数秒が永遠に感じられた。
湊は、少しだけ困ったように笑って、
そして・・・。
「してないよ」
それだけだった。
怒りも、動揺も、焦りも、何もない。
まるで、疑われることに慣れきった人のように、彼は淡々と答えた。
その「無」の反応が、沙耶の心を深く抉った。
翌日、芽依に結果を報告すると、
彼女はため息をついた。
「 “してない” って証明はできないもんね。
だって、やってないことを証明するって
無理じゃん?」
別の友人が、それに続いた。
「だったら、やっぱり…って思っちゃうよね。
疑わしいってことは、黒ってことだよ」
沙耶は黙っていた。
反論する言葉が見つからない。
「信じたいなら、信じればいいじゃん」
そう言われるのが、いちばん辛かった。
信じたいだけで信じるなんて、ただのバカだ。
そう思ってしまう自分がいた。
【もらえた安心】
真実を知りたい。
でも、どうすれば真実だと確信できるのか、
分からなかった。
彼の「してない」という言葉は、
彼の心の中にあるだけで、
沙耶には検証する術がない。
まるで、見えない壁に阻まれているようだった。
週末。湊がぽつりと言った。
「火曜、友達の誕生日で集まるんだけど、
沙耶も来る?」
沙耶は驚いた。
誘われるなんて、全く思っていなかったから。
疑心暗鬼の塊だった沙耶の心に、
小さな光が差し込んだ気がした。
これは、彼の「証明」なのだろうか?
現地に着くと、
そこにはあのミスコン準グランプリの
“例の女の子” もいた。
沙耶の心臓が、再び嫌な音を立てる。
しかし、彼女は湊の友達の隣に座り、
楽しそうに笑っていた。
湊は、ずっと彼女の隣の男子と、
ゲームの話で盛り上がっている。
沙耶は、彼の隣で、会話に加わることもなく、
ただひたすら彼と彼女の様子を観察した。
視線が交わることはない。
不自然な距離感もない。
ただ、そこにいるだけ。
沙耶は、自分の目で、彼の行動を、
一つ一つ確認していく。
彼が、彼女に特別な視線を送ることはない。
彼女が、彼に親密な態度をとることもない。
それは、沙耶が抱いていた
「浮気」という仮説を、静かに、
しかし確実に「反証」していく時間だった。
会が終わったあと、沙耶は湊に聞いた。
「今日…わたしのために呼んだの?」
湊は一瞬だけ黙って、
そして、沙耶の目をまっすぐに見た。
その瞳に、いつもの無関心はなかった。
「違うよ。ただ、ちゃんと見てほしかっただけ」
その言葉は、沙耶の心に、
深く、深く染み渡った。
彼は、言葉で「してない」と繰り返すよりも、
行動で「見てほしい」と伝えたのだ。
その夜、沙耶はスマホを見ながら泣いた。
言葉よりも、問い詰めるよりも、
あの数時間の静かな空気が、
何よりも雄弁な答えをくれた気がした。
それは、彼が「浮気をしていない」という
絶対的な証明ではない。
しかし、沙耶が抱いていた
「浮気をしている」という仮説が、
その場で「反証」されたという事実だった。
自分の目で、自分の感覚で、確かめられた。
それだけで、十分だった。
【自己の変化】
次の日の朝、芽依がLINEしてきた。
「結局どうだった?」
沙耶は、少しだけ考えてから返した。
「たぶん、してなかった」
そして、もう一言。
「でももう、信じるかどうかじゃなくて、
確かめられたからそれでいいかなって思った」
さらに、続けた。
「わたしは、噂とか疑惑とかじゃなく、
自分の目で見たかっただけなんだと思う。
誰かの言葉じゃなくて、自分の目で、
何を信じればいいのかを確かめたかった」
湊のスマホには、
まだあの子のフォローが残っていた。
でも、それがどうでもよくなる瞬間って、
確かにある。
それは、真実が「証明」されたからではない。
「反証」の可能性を、
自分の目で確かめられたからだ。
サー・カール・ライムント・ポパー(1902-1994)
「反証可能性(falsifiability)」
科学的理論(言明)の正当性は、
それが正しいことの事例(証拠)を挙げる
「実証」ではなく、
それが間違いであることの事例の検討
「反証」によって決定される。
反証事例すら挙げられない理論は科学ではなく、
科学と非科学を線引きするものが
「反証可能性」である。
「真実とは、絶対的なものではなく、
常に反証の試みに耐え、その都度、
確からしさを増していくものなのかもしれない」
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