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神居の地下室

第一章 美香


吉野美香は苦学生だった。
過去形なのは札幌で就職した現在では、否、旭山大学3年生21歳の夏からは苦学生ではなくなっていた。
その時から、美香の妖気の変貌は明白で、部活の仲間たちからも違和感をもって受け止められていた。
服装もとても地味な服装から、レザーのミニスカートにニーハイブーツなど、これまでの美香とは全く違う服装になっていた。


美香は名寄市立第二高校の出身で、高校時代から水泳部に所属していた。
美香は学業よりも水泳ばかりの青春時代を送っていた。

美香が学費や生活費のために、秘密のアルバイトをすることになったのはやむを得ない事情もあった。
もちろん最初から秘密のアルバイトという認識は無かった。
しかし、初日にあの地下室に入った時から、誰にも話せないアルバイトになった。
それは同時に、美香からお金の苦労からは解放させるものであった。
美香は就職してからも「後任者を指名できていない」ことを理由に、札幌からそのアルバイトに通うことを指示されていた。
悪くないアルバイト料がもらえたので、新卒で薄給の美香は満更でもなく、札幌から旭川に週末に通っていた。

美香にとって、後任者の候補がいなかったわけではない。
このアルバイトを始めた大学3年の時から、ちゃんとしっかりと後任者に唾もつけてあった。
しかし機が熟するのを待つ必要があった。


第二章 バトン


水泳部の部活前、更衣室で、3年生の美香がバッグを開けた。

中に、
見覚えのない競泳水着が畳まれている。

一着ではない。

色も、メーカーも違う。
どれも、
まだ硬さが残っている。

「それ、新しいの?」

新入生の茉央がそう言ってから、
自分が数えていたことに気づく。

美香は、
少し間を置いてから、
「うん。でも今日着るのは何度か着たやつだよ。」とだけ答えた。

高校のとき、
美香は一着の競泳水着を
何度も洗って使っていた。

ゴムの縁が緩むのを、
指で確かめながら。

今は、
確かめる必要がない。

バッグの口が閉じられる。

それだけで、
部活前の会話は終わった。



部活後、美香は、バッグの中の新しい水着を手に取って、
一度だけ、指を止めた。

「……今日着ていたのは、もう使わないの?」

濡れた髪を乾かしながら茉央がそう聞くと、
美香は、
答える前に
黒い競泳水着の縁を軽く引いた。

「なんかさ、
 二、三回使うと、
 次、着るのが
 ちょっと嫌になる時があって
 ……茉央、よかったら使う?
 まだ洗ってないけど。。」

差し出されたのは、
さっきまで美香が着ていた黒い競泳水着だった。

理由は言わなかった。
汚れたとも、
傷んだとも言わない。

ただ、
戻らない感じがある、
という言い方だった。

美香が二、三回使った水着は、
まだ硬さが残っている。

美香は、
それを確かめるように畳み直して
まだ塩素の臭いが残るその濡れた水着を茉央に渡した。


第三章 後任候補


美香が札幌で就職し、茉央が3年生になったばかりのある日、週末旭川に来てた美香が茉央をカフェに呼び出した。
カフェに20分遅れて来た美香は、学生時代より更に妖艶な空気をまとっていた。

「ごめん、茉央、遅れちゃって。さっきまで人と会っていたから長引いちゃって。」

どこで、誰と会っていたかは言わない。茉央は美香が男と会っていたのだろうとすぐに察した。あの溢れ出るフェロモンは、間違いなく男から愛された直後のものだと、男性経験が無い茉央にもわかるレベルだった。

「ところで、茉央、最近、バイトしている?
夕方から夜の時間帯の被写体のバイトが市内であるんだけど、
やってみない?」

――被写体かぁ。旭川市内なら悪くないかも。。

「ただ、条件があって、初回、、というか、毎回競泳水着を持って行ってそれに着替える必要があるの。いつも部活で来ているから大丈夫だよね?」

――競泳水着の写真を撮られるだけで、アルバイト料がもらえるなら、まぁ、いいか。。

「あっ、そうそう。茉央が新入生の時に更衣室でであげた黒の競泳水着、まだ持ってる?あれを持っていくといいよ。カメラマンたちがあれは喜ぶとおもう。」

――あの日、美香からもらった競泳水着は、まだ捨てられずにいる。
――部屋で何度か試着したが、お尻のあたりの締め付けが強く、身体の位置を決められてしまう感じがして、部活で着る気にはなれなかった。
――それでも、その締め付けの感覚だけが、なぜか記憶から抜けなかった。

「茉央・・やっぱり嫌?」

「嫌じゃない。美香先輩の紹介だし、一度行ってみるね。」

「じゃあ、決まりね。一つだけ約束して。この被写体バイトのことは絶対に誰にも話さないって。あと、、、まぁいいか。」


第四章 茉央


地下へ降りる階段は、途中から音が減った。
あの日の美香をイメージして履いてきたロングブーツの靴底が、踏む段の数だけ、外の気配が薄れていく。

美香に教えられた旭川の古い雑居ビル。
看板は上にあったが、地下はそれとは別の場所のようだった。
蛍光灯の色が均一で、影の境目が分からない。

赤いチェスターフィールドソファが一脚だけ置かれている。
革の皺が、座る前から人の重さを知っている形だった。

「すぐ着替えて下さい。聞いてきたと思いますが今日は水着で撮ります。
あと、着替えたら、そのブーツはもう一度履いて。」

男の声は近いのに、距離があった。
茉央は頷き、指示されたとおりに動いた。
部活帰りの競泳水着は、完全には乾いていない。塩素の臭いが残っている。
それでも、選択肢はないと理解している。

座る。

革は沈む。
沈み方が一定で、身体の位置を勝手に決めてくる。

カメラの準備音がする。
何かが調整される気配。

次の瞬間、音が消えた。

――消えた、と思ったあとで、
耳を覆われていることに気づく。

ヘッドホン。
いつからかは分からない。
触れられた記憶より先に、空間が変わっていた。

自分の呼吸が、近い。
近すぎて、距離が測れない。

外の音はない。
地下の音もない。

あるのは、
自分の中だけで続くリズム。

茉央は、笑顔を作る。
カメラに向けたものではなく、
その場に置くための表情。

男の指示で、横になる。
ブーツは脱がないように、と言われた。
革は沈む。

外せるかどうかは、確かめない。
確かめる理由が、思いつかなかった。

撮影は続く。
フラッシュは見えない。
光が当たっているかどうかも分からない。

赤い革の感触だけが、変わらずに残る。
それは、ここにいる間、動かないと決められている重さだった。

茉央は、その状態を受け取る。

――これは、知っている状況だ。
――でも、自分が選んだ記憶はない。

そう理解してから、遅れて、違和感が来た。

それでも、笑顔は維持された。

何回かシャッターを押されたのだろう。
両耳に嵌められた黒革のヘッドホンの圧だけが茉央の頬にもかかる。
全身が少し汗ばんでくる。この部屋に入った時には気づかなかったが、かなりの温度と湿度がある。
旭川の街の中はマイナス10度、この部屋は20度以上、その差は大きい。

男は一度撮影を止め、別室に行った。黒い何かをもって戻ってきた。茉央にその何かが理解できるまで少し時間がかかった。

――もしかして、、
――あれは、ラバーのグローブ・・

男は、このグローブを付けるように指示をしてきた。

はじめて嵌めるラバーのロンググローブは簡単には両腕に装着できなかった。
茉央は悪戦苦闘した。更に全身から汗が出てくる。
競泳水着からは塩素の臭いだけでなく、21歳の女子大生の汗の臭いがふわりと、しかしはっきりとたちのぼった。
ヘッドホンの黒革と顔の間にも汗がにじみ不快に湿る。

男は茉央がラバーグローブを装着するのを見届けると、もう一度部屋を出た。

扉が閉まる音はしなかった。
地下では、音が閉じる前に消える。

茉央は、
ヘッドホン越しに残る自分の呼吸を数えながら、
赤い革の沈み跡に身体を預けたまま、動かなかった。

しばらくして、
足音がひとつ分、増えた。
軽い。
靴底が床を確かめるような歩き方。

その足音を聞いた瞬間、
茉央の中で、
時間が一度、巻き戻る

――あ。

声がする前に、
声の質を思い出してしまった。

低くて、
張りすぎていない。
部活の終わりに、
「今日はここまでだ」と告げる時の、
あの調子。

「……大貫」

名前を呼ばれて、
逃げ場がなくなった。

ヘッドホン越しでも、
間違えようがない。

「久しぶりだな。もう三年生か」

その声で、
疑念は終わった

視界に入ってきた男は、
茉央が高校時代、
丸瀬布南高校で数学を教わり、
水泳部のコーチとして三年間過ごした、
深村健一だった。

善良で、
距離を守り、
決して踏み越えなかった、
あの先生。

ただし――
今日の深村は、
競泳パンツ姿だった。

それも、
布ではない。

光を吸う、
黒い素材。

「……先生?」

声にならなかった問いに、
深村は笑わなかった。

「今日は、指導じゃない」

その一言で、
過去の記憶が
すべて、別の位置に移された。

確かに、水泳部の部活のコーチだった健一の競泳パンツ姿は茉央も見慣れていたが、今日は何かが違った。

第五章 認知


ヘッドホンの内側で、音が起きた。

高さは定まらない。
大きさも測れない。
どこから来たのかも分からない。

地下の部屋の音ではない。
自分の呼吸とも違う。

動いていないはずの瞬間に、遅れて何かが反応する。

音は続かない。
しかし、終わりもしない。

聞いたというより、
聞いたことにされている。

確かめようとして、やめた。
確かめた瞬間に、この音が外から来たものだと決まってしまう気がした。

それは、鳴っている音ではなかった。
認識が、音の形を取って現れただけだった。


第六章 同期


赤い革の下で、短い反応があった。

ぎ、とも、きし、とも違う。
弾かれた金属が、途中で飲み込まれる音。

ヘッドホンの内側で、同じ間隔の反応が返る。

――同じだ。

そう思った瞬間、違和感が来る。

スプリングは外にある。
ヘッドホンの内側には、ないはずだ。

同期しかけて、揃わない。
揃わないのに、どちらが先か判断できない。

茉央は、視線を動かさずに深村健一を見る。

深村は、その音に反応していない。
首も、肩も、呼吸の間も、変わらない。

音が鳴ったのに、世界は動かない。

――聞こえていないのか。
――それとも、聞こえているものを音だと思っていないのか。

その違いを考えた瞬間、
背中に、遅れて冷えが来た。



第七章 乖離


ヘッドホンの内側で、音が途切れた。

急に消えたのではない。
終わる場所が、見つからなかった。

赤い革の下で、スプリングは鳴らない。
沈みはある。
戻りはない。

次に来るはずの反応を、待っている自分に気づく。

来ない。
来ないことが、遅れて確定する。

音は消えた。
それでも、何かがすでに決まっている感じだけが残る。

深村健一はまだ動かない。
聞いていない。
数えていない。

ただ、必要な間だけが、そこにある。

茉央は動こうとして、やめる。
理由はない。

判断が、ここに置かれたままだからだ。



第八章 解散


「今日は、ここまでだ。」

誰の声だったのか、確認しなかった。

ヘッドホンが外される。
音が戻る。
戻ったはずなのに、どこか一部が遅れている。

赤い革の沈みが、ゆっくりと戻る。
完全には、戻らない。

立ち上がろうとして、動きを止める。

下半身に、重みが残っている。

痛みではない。
熱とも違う。

重力が、そこだけ少し強い。

ブーツを履いたままの脚は動く。
けれど、動かしたあとに、遅れてついてくる感覚がある。

肺の奥で、別の匂いが遅れて混じる。

はっきりとは分からない。
地下の匂いでも、革の匂いでも、ヘッドホンの匂いでもない。

ただ、自分の身体から離れきらなかった気配。

帰宅してから洗えば消えると思えるほど鮮明ではない。
それなのに、消えないと分かってしまう程度には確かだった。

湿り気を帯びて重くなった競泳水着を脱ぎ、服に着替えて、再びブーツのファスナーを上げて階段を上る。
段の数は同じはずなのに、外の気配が戻るまでに一拍余計な時間がかかる。

――まだ、終わっていない。

そう理解した瞬間、
ここで何かが不可逆に置き換わったという事実を、
言葉にしないまま受け取った。

解散は、解放ではなかった。

ただ、続いていくための配置が、決まっただけだった。



第九章 水面


大学の屋内プールは、いつもどおりの匂いだった。
塩素。
湿ったタイル。
朝の換気が残した、薄い冷気。

着替えを終え、
シャワーを浴びる。
水は上から下へ流れる。
順番は、正しい。

競泳水着を身につけた瞬間、
違和感が来た。

締めつけは、
いつもと同じ強さのはずなのに、
下半身だけが、
水に入る前から沈んでいる

ウォームアップの合間、
先輩が箱を置いた。

「今日は冷えるから、
キャップ被ってから入ろう」

箱の中に、
ラバーのスイミングキャップが混じっている。
色は黒。
光を吸って、形が分かりにくい。

茉央は、
気づかないまま、それを取っていた

理由はない。
選んだという感覚もない。

手の中で、
わずかな抵抗が返る。
布のように逃げない。
戻ろうとする。

そのまま、
被る。

耳の位置で、
一度、止まる。

引き下ろした瞬間、
締め付けが遅れて来た

強くはない。
痛みでもない。

ただ、
頭の外側から、
内側へ向かって
位置を決められる感じ。

呼吸は、できる。
視界も、問題ない。

それなのに、
首の後ろに、
圧の記憶が
遅れて重なる。

水に入る。

冷たさは、
すぐに来た。
それでも、
腰から下だけ、
水に溶けるのが遅い。

蹴り出す。
伸びる。
回転する。

フォームは崩れていない。
タイムも、大きくは落ちていない。

それが、
余計に不安だった。

水中で息を吐く。
泡が視界を遮る。

その泡の向こうで、
一瞬だけ、
別の匂いが
水に混じる気がした

気のせいだ。
プールの匂いしか、ない。

そう思える程度には、
微弱だった。

ターンの瞬間、
壁を蹴る。

反発はある。
反発は、あるのに、
身体の下半分だけ、
戻ってこない。

プールサイドに上がる。

キャップを外す。
外したはずなのに、
締め付けの感覚だけが、
一拍遅れて残る

脚が、
少しだけ重い。

筋肉痛とは違う。
疲労でもない。

――まだ、
持っている。

そう理解して、
茉央はそれ以上、
考えなかった。

考えれば、
この感覚は
名前を持ってしまう。

部活は続く。
日常は、戻る。

ただ、
匂いと重みと、
締め付けの記憶だけが、
戻らなかった


第十章 研究室


札幌の大学は、夕方になると音が減る。
構内を抜ける風が、昼間の名残を削っていく。

研究棟の奥の階で、美香は一度だけ立ち止まった。
扉の前に掲示された紙には、日時と番号だけが書かれている。
内容はない。
それでも、呼ばれていることは分かる。

ノックをする前に、扉が内側から開いた。

「どうぞ」

金崎大吾は、机の横に立っていた。
白衣ではない。
スーツでもない。
研究室という場所にだけ合う、曖昧な服装だった。

室内は広くない。
窓はあるが、外は見えにくい位置にある。

中央に、黒いチェスターフィールドのソファ。
研究室の備品としては、少しだけ場違いだ。

「今日は、簡単な測定です」

金崎は資料を机に置いたまま言った。
視線は合わない。

「呼気の成分と、音と映像への反応の時間を見ます。
 危険なものはありません」

“危険”という言葉だけが、浮いた。

美香はコートを脱ぐ。
鞄はロングブーツの足元に置く。
特に指示はないが、ソファの位置が自然に視界に入る。

座る。

黒い革は、思ったより深く沈む。
姿勢を選んだつもりはない。
けれど、身体の位置はすぐに決まった。

金崎は、口元を覆う器具をもってきた。

金崎の手によって、頭の後ろ、下側で固定された瞬間、
息が一拍遅れる。

ラバーだと分かるのは、装着されたたあとだった。
冷たさはない。
温度を持たない感触。
器具に残る誰かの呼気の記憶を感じる。

鼻と口をまとめて覆う形で、
呼吸の通り道がひとつに集められる。

吸うより、吐く方が意識に残る。
吐いた息が、戻ってくる。
息の粘り気を感じる。
声を出すと、内側で反射する。
自分の呼吸が、距離を失う。

「苦しくなったら、合図してください。
 外せますから」

“外す”という言葉の指すものは、やはり説明されない。

ゴーグルのようなものを嵌められる。
目の周りに圧を感じる。
頭の後ろ、上側で固定される。

視界が完全に遮られる。

ヘッドホンが加えられる。
いつの間にか、黒革が耳を覆っている。
耳を覆われた瞬間、
部屋の広さが消える。

ラバー越しの呼吸音と、
内側に残る自分の鼓動だけが、近くなる。

金崎は、装着が終わったことを告げない。
確認もしない。

外の音が消える。
廊下の音も、研究棟の気配もない。

「そのままで」

手の位置を、少しだけ指定される。
ソファの肘掛に、腕が固定される
脚は、そのままでいいと言われ、ブーツの上から脚も固定される。

動こうと思えば、少しは動ける。
だが、動いたら測定が途切れる。
それだけの理由で、美香は動かない。

視界が切り替わる。

色ではない。
形でもない。

革。
ラバー。
ポリエステル。
エナメル。

素材だけが、順番を持たずに現れては消える。

意味はないはずだ。
説明もない。

それなのに、
黒い革が沈む感触が、先に来る。

マスクの奥からラバーの臭いと
粘り気が増した呼気の臭いが戻ってくる。

次に、耳を押さえる圧。
理由の分からない締め付け。
移動の直前に嗅いだ匂い。

映像は抽象のまま、切り替わり続ける。
だが、反応だけが具体的だった。

金崎は、何も触れない。
触れないまま、配置を維持している。

「いいですね」

何が良いのかは言われない。

映像が終わる。
たった今、美香の記憶で上書きされたばかりの
全ての装置が外される。

空気が戻る。
戻ったはずなのに、呼吸の深さだけが、元に戻らない。

ソファの沈みが、完全には戻らない。

「今日は、ここまでです」

解散という言葉は使われなかった。

美香は立ち上がる。
脚は動く。
だが、身体の内側で、位置がひとつ決まった感じが残る。

研究室を出ると、大学の音が戻ってくる。
学生の声。
遠くのチャイム。

どれも正しい。

それでも美香は知っている。

ここは神居の地下室ではない。
だが、同じ回路の上にある。

黒い革の沈みは、
すでに次の形を待っていた。

第十一章 階段


階段を下りるたびに、外の音が一段ずつ削られていった。
旭川の夜は寒いはずだったが、コートの内側はもう冷えていない。

ブーツの踵が、コンクリートを確かめるように鳴る。
急ぐ必要はなかった。
段の数は分かっている。
何度も、同じ数を踏んできた。

踊り場を過ぎると、蛍光灯の色が変わる。
白すぎて、影の境目が分からなくなる。

最後の段で、空気が切り替わった。

地下室の入口には、扉がなかった。
閉まる前に、音が先に消える場所だった。

赤いチェスターフィールドのソファが、一脚だけ置かれている。
革の沈みは、すでに人の形を知っていた。

その上に、黒いものが置かれている。
近づくほど、素材の輪郭だけが先に分かった。
布のようには揺れない。革のようにも鳴らない。
それなのに、折り目のつき方だけが、人の癖を知っている。

置かれ方が、乱暴ではない。
片づけたのでもない。
“脱いで、戻るつもりがない”置き方だった。

それが何かを考える前に、視線が止まる。

ソファの中央に、座っている。

競泳水着姿の茉央だった。

身体は正面を向いている。
背筋は伸びている。
けれど、視線は合わない。

両耳には、黒革のヘッドホン。
外界を遮るように、位置を決めて嵌められている。

コードは見えない。
どこにも繋がっていないはずなのに、外せる感じがしなかった。

茉央は、美香に気づいていない。
それとも、気づいていても、反応する位置にいないのか。

赤い革の下で、沈みがわずかに深くなる。

ソファの背に、影がひとつ増えている。

人の形に近い。
けれど、誰のものかは分からない。

動かない。
重ならない。
ただ、そこにある。

影のほうから、小さな息の移動があった。
吸うのではなく、吐くほう。
空気が一度、壁に当たって戻る。

それは美香の呼吸ではない。
茉央の呼吸でもない。
しかし、この部屋の呼吸としては、
あまりにも自然だった。

美香は、立ち止まらなかった。

コートの下で、湿った布が肌に触れる。
さっきまでプールにあった水の気配が、まだ残っている。

革の沈みを、思い出す。
ヘッドホンの圧を、思い出す。
過去に着ていた競泳水着の、理由の分からない締め付けを、思い出す。
ブーツの内側に残った、移動の匂いを、思い出す。

足が、少しだけ前に出る。

影は動かない。
茉央も動かない。

赤い革の沈みと、黒いものと、影と。

配置だけが、揃っている。

美香は、入口の向こうに戻らない。

ここでは、解散は解放を意味しない。
ただ、次の位置が決まるだけだ。

赤い革の上で、沈みが、ゆっくりと更新されていく。

合図はない。
間だけが、次を始める。


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