アーチ、あるいは非効率という名の信仰と思い出について
「ツカマッタ、サキニイケ」
かかる悲痛な、しかしどこか間の抜けた報せが友人より届いたのは、文化祭を目前に控えたある夕暮れのことである。
聞けば、文化祭の名物「アーチ」なる建造物の制作現場を、素通りせんとしたところをものの見事に捕縛されたのだという。捕まった、というのは比喩ではない。物理的に、労働力として、確保されたという意味である。
杉の枝を幾万本と手作業にて差し込み組み上げる、高さ三メートルの門。その効率の悪さたるや天下無双であり、誰の目にも明らかな無駄でありながら、しかし何人たりともこれをやめようとはしない。
やめる、という選択肢がそもそも存在しないかのように、皆、当たり前の顔をして枝を差している。
おかしいと思う。思うのだが、山々と湖に抱かれし、あの学び舎に三年間を費やした結果、私はこう結論せざるを得なくなった。
――非効率とは、時に信仰である、と。
説明しよう。「アーチ」とは何か。
専門の委員会なるものまで存在し、お揃いのTシャツをこしらえるほどの結束ぶりをもって、生徒玄関前に藁と木材と杉の枝のみを用い、高さ三メートルの門を築き上げる、儀式的建造物のことである。
木材にて枠組みを組み上げるところまでは、まだいい。腕自慢の部員諸君が「よっこらせ」と気合いを入れ、上腕二頭筋を誇らしげに躍動させながら、いかにも威勢よく作業を進める。ここまでは、いわば見せ場である。
真の試練はその先だ。完成した枠組みに藁をかぶせ、その隙間という隙間へ、杉の枝を一本、また一本と、延々と差し込んでいかねばならない。一人あたま何千本。合計にして何万本。想像するだに恐ろしい数字であり、想像したところで誰も得をしない数字でもある。私はあえて計算しないことにしている。
つまるところ材料は完全なる植物性。つまり、火をくべればよく燃える。かくも自然に忠実な、そして、よくもまあこれだけ手の込んだ「燃えやすい門」を、毎年わざわざ組み立てるものだと思う。
なお、捕縛された友人は、実は無抵抗のまま捕まったわけではない。委員会の面々に取り囲まれる寸前まで、こともあろうに鼻歌交じりに、こう歌っていたというのである。
「アーチーチーアーチー、燃えているんだろうか」
おそらく、藁と杉の枝でできたアーチが「あちち」と燃える様を想像し、駄洒落と歌謡曲を無理やり掛け合わせた、極めて質の低い思いつきであったと推察される。歌っていたから捕まったのか、捕まりそうだったから歌で気を紛らわせていたのか、その因果関係は誰にも分からない。分からないが、ともかく彼は捕まった。「ツカマッタ、サキニイケ」というメールの背後に、そのような小さな敗北の歌が流れていたことを、ここに記録しておく次第である。
素通りしようとする者を、委員会は見逃さない。あの手この手で、労働力として確保しにかかる。私はといえば、そのメールを見た瞬間、脱兎の如く帰宅した。薄情だと思うなら思えばいい。これは戦略である。生き延びるための、正当な戦略なのだ。
放課後、日が落ちて盆地特有の冷気が足元から這い上がってくる頃合いになってもなお、まだ枝を差している高校生というものが、この世には確かに実在する。彼らは青春というものを、文字通り「一本ずつ」枝へと変換しているのである。効率という概念を、盛大に、そして誇らしげに無視しながら。
そうしてアーチは完成する。完成した後、委員会のメンバーに「もっと楽な作り方があるのでは」などと言おうものなら、本気の形相で怒られる。理由を尋ねても、要領を得た答えは返ってこない。
「そういうものじゃない」「分かってない」――そう言われて終わりだ。分かってない、とは一体どういうことなのか。私にはさっぱり分からない。分からないが、彼らが本気で怒っていることだけは、痛いほど分かる。
ただ、一つだけ確かなことがある。当初は「非効率だ、非効率だ」と愚痴をこぼしていた、あの「アーチーチー」の友人が、完成させた後には「コレは…続けるべきだ」と、憑き物が落ちたようなすっきりした顔で語っていたということだ。
合理性という定規で測れば真っ先に切り捨てられるはずの「無駄」を、あえてやり遂げた先に、彼は一体何を手に入れたのだろうか。憑き物が落ちたのか、あるいは新たに憑いたのか。それは、実際にやらなかった者には、おそらく生涯理解できぬことなのだろう。
あの学び舎のアーチという名の非効率は、今もなお繰り返されているのだろうか。湖のほとりに霧の立ち込める季節が巡れば、アーチはまた組まれ、また誰かが「ツカマッタ、サキニイケ」と、悲鳴とも歌ともつかぬメールを打つのだろうか。
効率のみを考えるならば、そのようなものは全く以て不要である。杉の枝を一本ずつ差し込むほどの暇があれば、他になすべきことはいくらでもあるはずだ。それでもなお、あの友人は「続けるべきだ」と言い切ったのである。あの時の、憑き物の落ちたような顔を、私は今も鮮明に覚えている。
思い出というものは、案外そのような場所にこそ残るものらしい。効率を無視し尽くした果てにしか、思い入れというものは積もらないのだ。
ただ通り過ぎただけの、あの学び舎にて、私が学び得たことがあるとすれば――たぶん、それくらいのことである。
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