草間彌生みたいだね
最初は、正直よく分からなかった。
あの水玉のかぼちゃも、「ふーん」と遠くから眺めるぐらいで、なにも感じなかったように思う。
けれど、いろんな場面で何回も目にするうちに、眺める時間が長くなり、見る距離も一歩一歩近づいた。そしてついに私は、あの決して混ざり合わない水玉に吸い寄せられていった。
それからは、草間彌生の自伝や作品集などを次々と図書館で借りにいく日々がしばらく続いた。
彼女の半生を読むと、作品だけでなく、彼女の苦しさと生きづらさを創作へ映し出しているのがよく分かる。「彼女自身すら”草間彌生”というアートにしてしまった」と知ったとき、”気になるな”が、”すごい!”に変わった。
そんなある時、髪を切って帰ってきた私を見て夫が、にこりと笑顔で言った。
「おお、草間彌生みたいだね。」
え、全然嬉しくない。
思わず、鏡を覗き込む。
まあ、確かにおかっぱではある。
でも、赤髪でもないし、前衛的な服装もしていない。おかっぱ以外に他の要素は見つからない。
夫よ、流石に安直すぎないか。
夫の笑顔とは裏腹に、私の心は踊らなかった。
草間彌生さんは素晴らしいし、尊敬している。
でも私が彼女みたいになるということは、彼女自身のように作品になり、私も鑑賞される側になってしまう気がして嬉しくなかった。
彼女の世界には吸い寄せられたいが、彼女自身になってはいけない。
いや、なれないのだ。彼女ほどの苦しさを経験していない私に、アート"草間彌生"にはなれない。
夫に、彼女と私の距離感を説明すると、
うん。うーん?
と、言いながら私と目を合わせない。
気軽に言っただけなのに、なんでこうなったんだろうという顔をしている。
しばらく私の話に耳を傾けながら、コップの位置を少しずらしたり、モゾモゾしていたが、結局、コップを片付けるフリをして、キッチンへ逃げてしまった。
彼が残したコップの輪じみを、なぞって塗りつぶし、布巾で消した。
好きと同じになるは違う。
この”好き”の境界線、誰か分かってくれるだろうか。
