見出し画像

「感情教育(下)」 ギュスターブ・フローベール

山田𣝣 訳  河出文庫  河出書房新社


これぞほんとの自然主義…

第2部の続きは郷里からフレデリックがパリへ戻ってくる…その前のルイーズとともに散歩していた際の川や堰の描写が印象的。水が集まって混沌と一体化する…というのは、ある意味この小説の根本か?また、その描写のすぐあとに出てくるルイーズの魚に託した台詞は官能的でぞくっとしてしまう。
(2010 12/27)

「感情教育」第2部を今朝読み終えた。なんだかフレデリックの中で神格化されているアルヌー夫人と少し進展がありながら、それがだんだん焦燥に変わり、待ち合わせ場所に夫人が来なかった(子供の病気の為)ところで頂点を迎える。こういう誰か待っているシーンというのもよく小説に取り上げられるが、ここなどその古典的な例かもしれない。
筋はそんな感じだが、それより?自然描写の巧みさに今更ながら驚く。例えばあずまやの隙間から透けてくる光とそこに映る埃の描写など。絵画の印象主義をも連想させる…
(2010 12/29)

革命の時…


「感情教育」第3部。1848年フランス二月革命のどっちかというとカオスな状況が描かれる。この描写はフロベール自身の体験でもあるわけなのだが…バフチンのカーニバル論を思わせるような奪冠ぶり?革命とはカーニバルの別名なのだろうか?
(2011 01/05)

主義を通り越す眼は作家の眼


「感情教育」これまた久しぶりに。今日のところは、ロザネットとパリ近郊の田舎で遊ぶも、パリではまたもや暴動が…というところ。なんか引用したいところもあったような気がするのだが…

なんらかの主義とか思想とか越えた場所から人間社会を見る…というのが、一流の作家の必要条件、のような気がしている。フロベールが描く2月革命も、描く対象は人間であって事件ではない。
という観点からすれば、一番「人間っぽい」のがフレデリックなのだけれど。
引用したかったのはここ。

 最大限に腹を割って打明け話をする場合にも、偽りの羞恥心だとか繊細な気持ちとか憐れみなどがつねになんらかの制限をもうけるものだからだ。他人や自分の心のなかで絶壁や泥濘に行きあたると、もう先へは進めなくなる。
 人と人との完全な結びつきというものがほとんど存在しないのもこのゆえである。
(p166)


上の文は19世紀での優れた人間観察によって得られた「無意識」の描写、と言ってもいいかもしれない。下の文は、なんだかこの小説全体が証明したいのはただただこの内容だけである、なんて思ったりもする、そんなところ。
(2011 01/11)

よく実感できないダンブルーズ家の会合


さて、今朝読んだ「感情教育」は第3部の第2節。この部分はタイトルに書いた通りダンブルーズ家の会合(サロン)が中心。今は共和制でもともと銀行家のブルジョアのダンブルーズ氏もその中で意見を変えてきている(ようにみせかけている?)。そんな中行われたこの会には、やや保守的な傾きはあるけれどいろんな立場の人が集まる。革命の暴動に怯える夫人もいれば、共和制賛美の冗談も流れたりする。立場の違うこんな意見のごった煮状態が成立してた…とは、「孤立した現代」に生きる自分にはやや実感しにくいところがある。きっと、フロベールがこの時代を選んだ一つの理由はそうしたごった煮状態でいろんな人を衝突させたかったところにあるんじゃないか…と、思ったりもした。
そう、この会にはそういう面の衝突だけでなく、フレデリックの愛人大集合?という面もある。ダンブルーズ夫人はもちろんのこと、アルヌー夫人と(田舎のロック氏の娘)ルイーズも…さすがにロザネットはいないが…これまで出てきた決闘騒ぎの話やロザネットがモデルの絵の話などが話題になり、それぞれがそれぞれの感情を持つ。そういう意味ではこれまでのまとめ…みたいな節。
(2011 01/13)

死と出産


今日は第3部第4節。ダンブルーズ氏の死と、ロザネットの出産。フレデリックはダンブルーズ夫人の再婚相手…に?というところまで行き、一方では母になったロザネットを見て今度はこちらに通う…という、それぞれは一生懸命なんだけど、オイオイ、ほかにルイーズもいて、相変わらず理想はアルヌー夫人なんだろ、といういい加減なヤツ…憎めない?ほんと?

それはともかく、ダンブルーズ氏の死のすぐあとにロザネットの出産を出してくるのは、フロベールの人生観の現れか?死とその死に向き合う人々を冷酷に描写する、その直後のパリの一日の始まりのシーンはとても印象的…というか、「雪国」冒頭(笑)…違う?
確かにこの小説は読み返す度に違う面を見せてくれる小説のよう。相変わらず自然描写巧いし(笑)。
(2011 01/18)

ドノソとフロベールの似た表現関係


「感情教育」第3部第4節の後半。
フレデリックがダンブルーズ夫人の過去の男関係が気になった時のフロベールの比喩で、女の心はいろいろ細かい引きだしみたいなもので、一生懸命奥の方の引きだしを開けてみても、中には干からびた花しか残っていない…という表現があった。たぶん277ページくらい…

ここ読んだ時、自分はドノソの「夜のみだらな鳥」を思い出した。あの作品はとにかくそうした花を拡大化、幻想化して全面的に展開したような作品。療養所の中で老女達は荷物の中にいろいろ昔から持っている役に立たないモノを捨てられないで入れている。それがこの小説(「夜のみだらな鳥」の方)のテーマであるオブセッションの象徴みたいになっている。ドノソはフロベールのこの箇所を読んでインスピレーションを得たのだろうか?

あと、(ここからは「感情教育」の方)先の表現のすぐ後に、この当時の民衆の精神性について述べている。この革命から専制政治が生まれる変容の象徴が、セネカルらしい。そして「歴史は繰り返される」の名言通り、同じことがロシア革命で再現する…のか?
(2011 01/19)

「感情教育」教育


やっと2か月弱かけて「感情教育」読み終わった。

クライマックス、フレデリックのアルヌー夫人救出は失敗(夫人が姿を隠した)し、共和制の象徴であったジュサルディエはよりによってセネカルに撃たれる。愛情面からも政治面からも一つの時代が終わる。アルヌー夫人の日用品が競りにかけられるところは、フレデリックの精神面もさることながら、資本主義の仕組みが成立してきたことを物語る。そういえば、この小説「経済教育」でもあるみたい…

アルヌー夫人との再会を経て、ラスト第7節はエピローグ的なフレデリックとデローリエとの昔話。そこで語られる「トルコ女」のエピソードは小説冒頭と呼応している…と、解説の工藤氏が書いていた。
(2011 01/20)

作者・著者ページ

関連書籍


いいなと思ったら応援しよう!