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犬の正体がようやくわかったぞ。

週末に気仙沼まで行ってきた。

あまりに馴染んでしまった土地なのでいきなり気仙沼、と書いてしまうけれど、宮城県の気仙沼市である。いちばん有名なのはフカヒレなのだろうか。カツオも、さんまも、メカジキも、ワカメも、カキも、そしてホヤもおいしい美食の港町だ(ごめんなさい、ホヤは食べたことないです)。

行った理由は立川志の輔師匠。「立川志の輔独演会〜おかえり気仙沼」を観るためである。いつの間にか自分のなかで毎年の恒例行事になってしまった。で、今年も師匠の落語はすばらしかったんだけど、本日ぼくが話したいのは終演後のアフタートークである。

現在1歳半になるお孫さんがいるという師匠は、「こうやって全国をまわって東京の家に帰って『さあ、落語の稽古だ』と思うんだけど、孫の顔を見ると『ま、いいか』と思ってしまう。いま、自分のなかで孫と落語のどちらを選ぶかが毎日の悩みになっている」といった意味のことをおっしゃっていた。


ああーーーっ、と長年の疑問が解けた。

犬の話である。

もう何回となく書いてきたことだけれど、犬のことをぼくは家族だと思っている。家族同然なのではなく、家族だ。そこは譲らないし、犬が病気をしたときには当然仕事を休む。外部の方との打ち合わせを「犬を病院に連れていくので」と断ったことも当たり前にある。家族だもの。

で、家族であるのはいいとして、さすがに犬(ぺだる/オス)を「お父さん」だとは思わない。まだ生まれてから10年も経っていないのだし、出産に立ち会ったわけではないものの、赤ちゃんのころから知っている。「お父さん」や「お兄さん」ではない。

じゃあ子どもなのか。オスであるからして息子なのか。ここが大いに悩みどころだった。なんというか、わが子にはもうすこし厳しくするのが親のつとめではないのか。あるいは、世間の厳しさを教えたり、背中で人生を語るのが父のつとめではないのか。こんなにデレデレしていていいのだろうか。


もうお気づきだろう。

つまり犬とは、孫なのだ。

ちょっと目が合うだけでデレデレになって、ほしがるおもちゃをなんでも買い与えて、すこしでも遊んでくれたら大喜びして、あんまりしつこいとウザがられて、けれどもほしいものがあるときは甘えてきて、うまく利用されていると知りながらその成長に目を細めて——。犬とぼくの関係は、完全に孫とじいじのそれである。

おおいに安心した。これからも思う存分、デレデレになろうと決めた。そうか、お前は孫だったのか。どおりで無限にかわいいと思ったよ。