仕事を舐めず、関係を舐めない
いまでもあの教えは語られているのだろうか。
ぼくが若いころ、大物にお願いごと(たとえばインタビューや本の執筆)をする際にはちゃんと手紙を書きなさい、と語られていた。手書きの、毛筆や万年筆による手紙である。それはメールやソーシャルメディアが普及していなかったからではなく、ワープロで打ち出した手紙もまたダメだと言われていた。こころを込めて、手書きするのだ。
字の汚さには自信があった。汚さというより、幼さと言うべきだろうか。これは現在に至ってもなお改善されないのだが、どうにも子どもっぽい字しかぼくは書けない。そんなやつの書いた手紙なんて迷惑でしかなかろう、と当時は思っていた。とはいえまあ、ライターとして、あるいは編集者として、過去に何通かの「手書きの手紙」を書いたことがある。どんな手紙を書いたんだっけ。
その内容以上に憶えていないのが、手紙を送ったあとのやりとりである。まず間違いなく言えるのは、郵便物としての返事をもらったことはない。そんなものがあれば、さすがに保管しているだろう。幾人かの方々について、お電話させてもらった記憶はある。「先日○○の件でお手紙をお送りさせていただいた古賀と申しますが」てな感じで。だとすれば手紙は、電話をかける方便のような機能を果たしていたのかもしれない。
さてここで、自分が手紙を受け取る側だったとしよう。ライターなり編集者から、毛筆で書かれた熱い手紙が届いたとしよう。しかも手紙の内容が、できれば断りたい依頼だったとしよう。
迷惑とまでは言わないが、なかなかに面倒くさい話である。そもそも手紙に返事を書くのは面倒くさい作業だ。そのうえ、断りの返事を書くのであるから精神的な重たさもある。また、手紙には「ポストでの投函」という手間も発生する。返信ボタンひとつでやれるメールのほうが、ずっとありがたい。なので、もしもいまだに「お願いごとをする際には手書きの手紙を」という教えが語られているのだとしたら、いやいやいまどきそれは迷惑ですよ、と言ってまわりたい気持ちがある。
しかし、だ。——ここから話は仕事全般へと移る。
みんなそうだと思うけれどぼくはいつも、いい人と、気持ちよく仕事をしたいと願っている。そして自分についてもまた、気持ちよく仕事のできる、いい人でありたいと思っている。
では、いい人とはどんな人なのか。人当たりのよさだろうか。話のおもしろさだろうか。価値観が一致する人だろうか。あるいは(仕事上の関係であるからして)実務能力の高さだろうか。
いろいろ考えて自分の場合、「失礼じゃない人」がいちばん大事な、最低限の条件じゃないかと思う。なんらかの失礼を働かれると当然イラッとするし、そのイライラが積み重なって「この仕事」自体が嫌になる、というのはよくあることだ。自分の力ではどうしてもカバーしきれないもの。それが「失礼」ではないかとぼくは思う。
じゃあ、失礼とはなにか。さすがにみんな社会人だ。面と向かって罵倒してくるような人はいないし、足を引っかけてくる人もいない。そうではなく、もっと根本のところで——特段の攻撃性も持たないまま——こちらを舐めている人、また関係を舐めて仕事を舐めている人と出会ったとき、ぼくは失礼を感じる。
ここでの「舐めている」というのは、タメ口を利いてくるみたいなの話ではない。むしろ敬語の使いかたなんて、いくらでも技術と経験でカバーできるものだ。そうではなく、ラクをしようとしていること、サボっていること、かけるべき手間を惜しんでいること全般にぼくは「舐め」というか、「あなどり」を感じるのである。逆に言うとていねいで、関係の手間を惜しまない人との仕事にこそ、「いい人」を感じるのだし、自分もそうありたいのである。
だとすれば昭和から続く、なんなら平安時代から続く「手書きの手紙によるお願い」もまた、手間や真心を伝える手立てとしていまなお有効なのかもしれない。
まあ、それはともかく関係への手間を惜しまない自分でいることは、AI時代を生き抜く必須条件のように思うのだ。
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